崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

休日の補充

2013年10月24日 04時30分07秒 | エッセイ
 昨日は祝日を補充する日なので私の水曜日の授業はないといわれて少し気分的に軽くなった。祝祭日の関係で月曜日ハッピーマンデーには休日の授業の補充が多くあったが昨日は金曜日のものであった。私は意識せずその直前に自分の授業がないことを知った。政府が定めた2005年現在、「日本国民の祝祭日」は計15日であり、その労働を他の日に補充するということはどんな意味であろうか。日本の祝祭日に関する法律によれば「休日とは、業務・営業・授業などを休む日」となっている。私は原理主義者ではないが、それによれば休日の分を補充することは違反であろう。それより労働と休日の意味を深く考えてほしい。北朝鮮では休日を「労働からの解放」と言っている。労働を罰とするところも多い。韓国では嫁生活はもっとも辛い「苦生・コセン」という。休日をノヌンナルすなわち「遊ぶ日」という。日本の休日の労働分を補充すべきだと思うと重い負担となるだろう。日本人は休日の意味を知らない単なる勤勉な国民であろうか。
 私たちは重労働(?)の読書会を行った。礒永氏が1935年「朝鮮」に掲載された慶尚北道の農村振興に関する寄稿文を読んだ。その真ん中の部分に私が調査した村や簡易学校名が出てわくわくして読んでいき、農村振興を担当した「姜光乙先生」の名前が出て私は歓声をあげた。なぜなら姜先生の40日間の出張の間朴正煕氏が代講したというインタビュー調査で姜先生の教え子たちから何度も「姜光乙先生」のお名前を聞いていたからである(写真1995)。文章では初めて名前を見つけることができ、本当に嬉しかった。私は資料提供した礒永氏に感謝のことばを言った。休日の労働分の重労働のような仕事の中から喜びが噴出した。仕事、労働、休み、遊びの日の意味が分からなくなった。