崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

在日の劣化

2013年10月07日 04時37分30秒 | エッセイ
 昨日教会出席の後、「梅光大学100周年記念写真展示会」、「唐戸まつり」(写真)に足を運んだ。そのまつりには在日2世の朴仙容氏が出店しいているのでその現況を知るためである。古く私が東京で焼き肉店を調査して分かったことは当時店主は在日であってもコックは日本人であった。そのような傾向が今では安定しているようである。店主は在日を通して韓国文化のイメージや象徴であり、味の創出は日本人によるものであるという意味である。最近は日韓関係の文化交流の行事にも民団・総連の在日朝鮮・韓国人の参加者はほぼいない。私が行っている韓国文化論でもそうである。おそらく全国的な現象ではないかと思われる。日本人の韓国への関心に比べて在日の関心が対照的に弱く、韓国文化への勉強熱も日本人に比べて低い。在日の存在さえ薄れていると感ずる。
 日韓関係が正常ではなかった時代は「在日」は日本で朝鮮文化の実態であった。彼らは朝鮮語や文化を体で覚えている存在であったからである。社会的には「差別」云々など、政治的には「…反対運動」などでも存在感があった。しかし今は世代を重ね日本化され、彼らの存在感が薄れている。「在日」という名称だけが形骸化していくようである。在日が「共に生きる」とか「多文化」を主張したこともむしろ日本人によって実行されていて、在日の主張の意味も希釈している。日韓関係は日本人と韓国人の直接関係であり、在日を経由する意味が全く失くなった。これは日本人の国際化、在日の劣化とも言える。