崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

2009年01月15日 04時54分15秒 | エッセイ
 韓国のテレビドラマ「美しい時代」の中で朝鮮戦争の時孤児になり他人に育てられた女性が産みの母の写真を見ている場面で私は突然泣きだしてしまった。感情コントロールができなくなったのである。一緒に見ていた家内ももちろん泣いていた。普通家内がドラマで涙を拭いているのをみてセンチメンタルであり、感情コントロールができない人だと否定的に見ていたのに、自分自身が感動してそうなってどうしょうもなくなった。
 韓国人の男性は老人になると泣く人が多い。最近亡くなった私の友人は長い間脳梗塞で苦労したが、彼は彼の家族と私が一緒にいる中でよく泣いた。私の親族でもそのような人は多かった。私は恩師が亡くなった時お通やでも非常に悲しかったが泣かなかった。コントロールができた。悲しさと泣くこととは必ずしも一致することではないことを実感した。泣くこと、泣かせることには刺激要因が必要である。泣くためには悲しさのうえ、発砲させるような起爆要因が必要である。上のドラマは登場人物が泣くより視聴者を泣かせるような条件がそろっている。今は亡くなった母の写真が発砲の起爆点になっているようである。それが涙腺を刺激したのであろう。泣くことをコントロールすることとは別に、老人の泣き現象は悲しさを感ずることで、いうならば成熟していくことを意味するのかもしれない。世の中が「血も涙もない」ドライな社会になっていくのが怖い。