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俳句の笑ひ(1)

■旧暦6月28日、火曜日、

(写真)カヌーの練習

サイバープロテスト初校校正原稿をF巻さんに送る。10日ほどで、再校が出るので、10月くらいには、本になるだろう。その後、ちひろ美術館に出かける。ちひろという絵本作家には、さほど、関心はなかったが、ここに、『E・Jキーツの俳句絵本』(リチャード・ルイス編、エズラ・ジャック・キーツ絵 偕成社 1999)という絵本があるというのを知って、出かけてみる気になった。これが実際に見てみるとかなりいいのである。キーンという画家の絵と江戸期の俳諧のコラボレーションの妙。俳句の英訳もあって、なかなか読みごたえがある。この本を読みながら、思ったのは、ここには、笑いがあふれているということ。笑いを詠むのは難しいと嘆いていてもはじまらない。それなら、自分が最良と思う「笑う俳句」を検討していこうと思いたった。確かに、笑いと一口に言ってもさまざまな笑いがある。対象も笑い方もさまざまである。至高の笑う俳句を人間が作れるのかどうかも含めて、広く俳諧・俳句を検討してみようと思っている。




雲を吐く口つきしたり蟇蛙
   一茶

おれとしてにらめくらする蛙哉
   一茶

かはほりのかくれ住みけり破れ傘
   蕪村

蝶々や花盗人をつけてゆく
   也有

■一茶の笑いはわかりやすいが、凡庸な俳人がまねをしても、やらせになってしまう。たとえば、生て居るばかりぞ我とけしの花一茶のような虚飾を削り落して丸裸の孤独な自分に立ち戻れて初めて出てくる笑いではなかろうか。蕪村、也有ともに、面白いが、かすかな作為が感じられる。



Sound and Vision

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芭蕉の俳諧:猿蓑(16)

■旧暦6月27日、月曜日、

(写真)盆を過ぎると味が落ちるという。

今日は、多少、二日酔いの気があるが、淡々と仕事。夜になると、完全に秋の気配である。「夜の秋」は夏の季語だが、そんな言葉を思い出した。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

plowing the field
listening to
the sermon

na [no] hata uchi ya dangi wo kiki nagara

菜の畠打や談義を聞ながら

by Issa, 1823

An itinerant Buddhist priest is preaching, possibly on the subject of Amida Buddha's saving grace.




つかみ合子共のたけや麥畑
   游力

しら川の関こえて
風流のはじめや奥の田植うた
   芭蕉

出羽の最上を過ぎて
眉掃を面影にして紅の花
   芭蕉



Sound and Vision



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フランス語の俳人たち:Jean-Lois Bouzou(8)(9)

■旧暦6月26日、日曜日、、送り火

(写真)立ち話

昨夜は、山崎方代の伝記『無用の達人 山崎方代』(角川ソフィア文庫)を3時まで読みふけってしまった。実に面白い。こういう破天荒な歌人の生きた軌跡を読むと、なんだか、気が楽になる。ぼくには到底真似ができないが、こういう人は好きである。ただ、その短歌はあまりいいとは思わない。放哉に似ているが、そこまで届いていないように思う。早朝、千葉大で太極拳。その後、仕事、サイバー初校校正終了! 久しぶりに、A句会へ参加。今回は、やけに調子が良かった。しかし、なかなか上手く笑いの句はできない。



at gate after gate
green hills
of silkworm poop

kado-gado ni aoshi kaiko no kuso no yama

門々に青し蚕の屎の山

by Issa, 1824

People have dumped out little "mountains" of silkworm waste. According to Bridget Dole, silkworm droppings are "blackish green." About this curious haiku, she speculates, "Maybe when [the silkworms] are in the cocoons, everyone cleans out the rearing trays at the same time. The size of one's 'mountains' would be an indication of success."




Grand coup de frein
-sur la route l'enfant riant
récupére son ballon.


キーッとブレーキの音
―道路では嬉しそうに
子どもがボールをキャッチする


Dans l'atelier
à côté des miennes
-des toiles d'araignée.


私のアトリエの隣の
アトリエ
―蜘蛛の巣


■アトリエの句の「des toiles」には、キャンバス、絵画という意味もあり、ここでは、おそらく二重の意味が掛けられている。しかし、両句とも、あまりぱっとしないと思う。



Sound and Vision



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芭蕉の俳諧:猿蓑(15)

■旧暦6月25日、土曜日、、敗戦忌

(写真)夏休み

朝、千葉大の木陰で、太極拳を行う。かなり気分いい。サイバー9章校正終了。気が向いたので、夕食を作る。ペペロンチーニ。好物である。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the pine saplings
looking pretty...
a scarecrow

matsu nae no utsukushiku naru kagashi kana

松苗のうつくしくなるかがし哉

by Issa, 1806




這出よかひ屋が下の蟾の聲
   芭蕉

五月雨に家ふり捨てなめくじり
   凡兆

髪剃や一夜に錆びて五月雨
   凡兆


■かひ屋は蚕を飼う部屋。日の道は太陽の通りゆく道。蟾の句、人間の活動と蟾の声の対比がユーモラスで惹かれた。凡兆の句。なめくじを詩にしてしまう俳諧の偉大さ。髪剃の句。取り合わせが近い、あるいは因果関係が透けて見えると思うが、その意味で、近代的と言えるのかもしれない。感覚の鋭さにはびっくりする。近代の短編小説のような趣を感じた。



Sound and Vision

鬼束ちひろは、カバーも歌っているが、これはかなりいいのではないだろうか。

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フランス語になった俳人たち(15)

■旧暦6月24日、金曜日、

(写真)ある大詩人を詠める  瓢箪に喩へてみたきお人柄  冬月

早朝から起きて、アファナシエフに、小説の件でメールを書く。この時期、バカンスなので、連絡は取れないかもしれないが。朝食前に、ストレッチと太極拳を裏の千葉大で行う。かなり気分がいい。帰宅して、詩を一篇書いて、昨日の翻訳原稿と一緒に、コールサックに送る。大幅に遅れたが、何とか、提出。午後、サイバー8章校正終了。夕方、ぶらりと散歩。コミックを一冊購う。ゴーリキー原作の『どん底』(笑)。まさに、今の状態を象徴しているかもしれんね。Henri MichauxのLa vie dans les plisの中の短い詩篇を訳出しようと、ここ数日、努力してみたが、まだ歯が立たないことがわかった。悔しいが、ペンディングである。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

in the coolness
like Gautama Buddha...
cross-legged

suzushisa ni shaka do^tai no agura kana

涼しさに釈迦同体のあぐら哉

by Issa, 1818

Earlier the same year (1818) Issa writes this haiku referring to Amida Buddha.



名月や池をめぐりて夜もすがら   芭蕉


Toute la nuit
sous la lune ronde
à faire le tour de l'étang


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


夜もすがら
名月の下
池をめぐりながら


■気になったのは、「切れ」がまったく意識されていない点。


Toute la nuit
à faire le tour de l'étang

La lune ronde


じゃなにか問題あるだろうか。シラブルは、最初から、575に捕らわれていない。



Sound and Vision


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芭蕉の俳諧:猿蓑(14)

■旧暦6月23日、木曜日、、迎え盆

(写真)土砂降り(那智の瀧)

午前中、眠ってしまった。午後、サイバー7章校正終了。夕方、ツェランの詩を考える、一ラウンド訳稿はできた。外出。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

beaten out
by the women...
picking herbs

onna-shu^ ni dashi-nukare tsutsu tsumu wakana

女衆に出し抜れつつつむわかな

by Issa, 1818

This haiku has the prescript, "Since I'm becoming an old man." Wakana (young greens or herbs) are picked on the sixth day of First Month--a traditional New Year's observance. As Shinji Ogawa notes, women have beaten Issa to the punch: dashi-nukare = "get passed"; tsu-tsu = "-ing."

■「出し抜く」がbeaten outやbeaten Issa to the punchで表現されるのを初めて知った。




蛸壺やはかなき夢を夏の月
   芭蕉

粽結ふかた手にはさむ額髪
   芭蕉

夏草や兵共がゆめの跡
   芭蕉



Sound and Vision



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芭蕉の俳諧:猿蓑(13)

■旧暦6月22日、水曜日、、阿波踊り

(写真)本宮神社石段(熊野)

元気出ず。午前中、10年前の日記を読み返す。ますます、元気出ず。午後、サイバー6章の校正終了。コールサックのSさんより電話。次号の原稿のことを心配していただく。心の状態が悪く、ドイツ語を読んだり、詩を書いたりする気になれない。それでも、二度も電話いただいたので、夕方、買い物がてら、喫茶店で、Celanの詩を検討してみる。不思議なことに、Celanを読むと、心が少し持ち直してきた。そのあまりにも悲惨な体験が、微妙な詩的言語を通じて、確かに、伝わってきて、なんらかの化学反応が起きたものらしい。今日は、一次稿を一気に作成する。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

deep inside
a cricket is singing...
oven

ko^rogi no uketomete naku kamado kana

こおろぎのうけ泊て鳴竈かな

by Issa, 1820




洗濯やきぬにもみ込む柿の花
   薄芝


竹の子の力を誰にたとふべき
   凡兆


たけの子や畠隣に悪太郎
   去来

■薄芝の句、「もみ込む」という措辞が効いている。柿の花と洗濯の取り合わせも、いい味。凡兆の句、めでたさがあっていい。去来の句、実におかしい。徒然草を思い出した。山奥の風趣あふれる庵を訪ねると、いかにも、物寂しげな様子で、どうにか、人が住んでいる気配が、感じられる程度。しかし、庭を見ると、みかんの木があり、たわわに実が生っている。その周りは、なんと、柵でかこってあるではないか。なんだ、生臭い、セコイ。白けることよ。この木がなかったらなあ、といった話なのだが、この話は、ぼくには、笑い話のように響く。去来の句のような悪太郎と庵の風流爺さんの戦いは実に愉快ではないか。

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芭蕉の俳諧:猿蓑(12)

■旧暦6月21日、火曜日、

(写真)新宮の海

起きたら、晴れている。台風はどうしたんだろう。サイバープロテスト、初校校正半分終了。時代と確実に切り結んでいるはずである。

相変わらずの低空飛行。まあ、飛行する必要もないか。地を這えばいい。虫の目の方が、鳥の目よりも、生のニュアンスが豊かなはずである。もろもろ、ストレスがかかって、ペリカンの215を衝動買いしてしまった。スチールペンだが、ペリカンのBlau-Schwarzで書きたくなったのである。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the well's bottom, too
utterly dry...
moonlit night

i no soko mo suppari kawaku tsuki yo kana

井の底もすっぱりかはく月よ哉

by Issa, 1822

Issa refers to the summer custom of draining and cleaning wells. In this haiku, the well has been drained, so there's no water to reflect the moon. Shinji Ogawa explains that suppari kawaku means "being dried completely."




ほとゝぎす何もなき野ヽ門構
   凡兆

ほとゝぎす瀧よりかみのわたりかな
  丈艸

■猿蓑巻之二。「わたり」は「あたり」。ほとヽぎすの声は、山へ行けばよく聞くことができるのだろうが、改まって、これがほとヽぎすだと認識したことはなかった。かっこうは、都市部でもよく聞かれるが。

凡兆の句、広々とした人家のない空間が、ほとゝぎすの声で、眼前に現象してくるよう。このときの野は、山裾などを言うのかもしれない。丈艸の句は、垂直に景が現れる。奥深い山を想像させる。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(11)

■旧暦6月19日、日曜日、、長崎忌

(写真)花の窟(いわや)神社(熊野)大きな岩があるだけである。日本最古の神社という。祈りの対象の原型という意味で、非常に興味深い。

病人が二人出たが、どうにか、峠は越えた。しかし、どうにも元気が出ない。一方は、24時間の医療体制を組み、もう一方は、主要なストレス要因を排除した。バッハとベートーヴェンを聴きながら仕事。 



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

lining up
with newcomers' faces...
swallows

ima kita to kao wo naraberu tsubame kana

今来たと顔を並べる乙鳥哉

by Issa, 1812

■「今来たと」という措辞の臨場感が出ていないと思う。




いね〱と人にいはれつ年の暮
   路通

■猿蓑巻之一冬の最後に近い句。笑いの入り混じったペーソスを感じた。pathosはパトスでもある。現代で、こういう句を作る人はまずいないだろう。あっち行け行けと人に言われるような嫌われ者が俳句をやることはないだろうから。これは、裏を返せば、俳句はアウトサイダーの手からエスタブリッシュメントの手に渡ってしまった、ということかもしれない。このことの意味は、よく考えてみる必要があるのではなかろうか。芸術の原点は、社会的には、この句の作者のようなところにあったということを忘れないためにも。






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芭蕉の俳諧:猿蓑(10)

■旧暦6月12日、日曜日、、青森ねぷた祭

(写真)土砂降りの那智の滝

終日、仕事。司馬遼太郎の熊野紀行を読んでいる。司馬さんのスタンスは、人としてまっとうなものだが、それでいて、歴史のニュアンスや微妙さもけっして忘れない。なんだか、読むと癒される。

幕末、外圧によって革命化した機運は、革命思想を徳川儒学のなかに含まれている朱子学の史観にもとめた。…もし幕末において朱子学史観が存在しなければ、「尊王攘夷」だけで革命を起こすようなことにはならず、革命の思想をもっと普遍的な所に求めたに相違なく、もしそうなれば、明治以降の日本社会も人間精神の矮小さから多少とも救われ、もっと違った近代人像を作りえたかもしれないと思えるのである
  (『街道をゆく8 熊野・古座街道』司馬遼太郎 pp.77-pp.78 朝日文庫)



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

cicadas chirr--
viewed from the mountain
a big sitting room

semi naku ya yama kara miyuru o^zashiki

蝉鳴や山から見ゆる大座敷

by Issa, 1822




ひつかけて行や吹雪のてしまござ
   去来

から鮭も空也の痩も寒のうち
   芭蕉

■「てしまござ」は雨具。去来のイメージは、謹厳実直で背の高い文武両道の人。「ひつかけて」が面白かった。さすがの去来も寒かったのだろうか。芭蕉の句、もっとも好きな句の一つ。この質感と季語の響きあいは、何度読んでもいいと思う。空也は、あの空也像からのイメージだろうか。



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