goo

芭蕉の俳諧:猿蓑(21)

■旧暦7月12日、月曜日、

(写真)無題

今日はよく寝た。11時起床。睡眠薬を飲まない方が、長く眠れるというのは…。これも一種のパラドックスなのか、ただ寝つきが悪いだけなのか。台風の大雨。

民主党政権にはどこまで期待していいのか、わからないが、権力者意識しかない、ずれ切った「自公オヤジ政権」よりはましだろうし、棄権すれば現行政権の延命に手を貸すことになる。という判断をぼくもしたのだが、民主主義の成熟は、必ずしも二大政党制になることではないと思う(政権交代があるのは、権力と諸集団との癒着を回避できるので、当然、賛成だが)。いかに、少数意見を掬って政策に活かせるか、ということではないだろうか。この点で、民主政権が、社民党や国民新党と連立する意向を示しているのは、まともな判断だと思うが、議会制民主主義の枠を超えた対話がもっとあってもいいように感じる。社会運動体との対話である。これは政党の側からも運動体の側からも必要なアクションではなかろうか。根源的な批判と具体的な政策枠組みの相互媒介。こういったことが、今後の重要な社会的テーマになるのではなかろうか。ぼくはそう感じている。これについては、後日、『サイバープロテスト』が出た後に、具体的な例を挙げて、述べてみたいと思っている。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

where the verandah fly
rubbed his hands...
swat!

en no hae te wo suru toko wo utare keri

縁の蝿手をする所を打れけり

by Issa, 1819



元禄二年つるがの湊に月を見て、氣比の明神に詣、遊行上人の古例をきく
月清し遊行のもてる砂の上
   芭蕉

仲秋の望、猶子を送葬して
かヽる夜の月も見にけり野邊送
   去来

■遊行上人は、時宗二世、他阿上人。一遍の時宗には、前から興味があるが、なかなか、深く調べる時間がない。俳人の五十嵐さんが、俳句との関連という視点から、優れた論考を書かれているので、勉強させてもらっている。芭蕉の句は、砂にあたった月光と周囲の闇。その全体のありようが、人間の歴史と救済というものを象っている気がする。去来の句。猶子は甥のこと。追悼というのは、笑いや挨拶と並んで、俳句の本質的な構成要素という気がしてならない。そして、この三つは、どこかで相互に関連している。去来の月は、非情でもあるが救済でもあるように感じて惹かれた。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )