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ドイツ語の散文家たち:Marx「経済学哲学草稿」(6)

■旧暦7月2日、金曜日、

(写真)無題

朝、O君に久しぶりに会う。O・HenryのThe last leafについて、話し合う。彼はO・Henryのファンでかなり詳しい。なかなか面白かった。下旬には帰国するので、記念に、富士山に登って日の出を見て来たという。

パリのマエストロからメールがあって、小説を2篇を送ってくれた。英語がメインだが、フランス語も一部、混じっている。これを読めば、マエストロの散文の仕事の一端がわかるだろう。翻訳可能かどうか、しばらく検討してみるつもりでいる。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

old wall--
from whichever hole
autumn moon

furu kabe ya dono ana kara mo aki no tsuki

古壁やどの穴からも秋の月

by Issa, 1826

Shinji Ogawa translates dono ana as "whichever hole."




労賃は資本家と労働者の敵対的な闘争によって決まる。勝利するのはきまって資本家のほうである。
 『経済学・哲学草稿』(マルクスコレクションⅠp.241 筑摩書房 2005年)


Arbeitslohn wird bestimmt durch den feindlichen Kampf zwischen Kapitalist und Arbeiter. Die Notwendigkeit des Siegs für den Kapitalisten.

Marx, Karl Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844

■第一草稿「労賃」の有名な最初の一行。ここで言う「労働者」Arbeiterの方は、常に可視的にイメージできるのに対して、「資本家」Kapitalistは不可視的である。会社と言ってもいいし、株主と言ってもいいが、いずれにしても、労働者をそのエージェントとする一種のネットワークのようなものとイメージできる。たとえば、入社したてのサラリーマンが、ボーナスカットを「会社がつぶれてはどうしょうもないですから」と理解する。このとき、彼は、労働者であるが、同時に、資本家のエージェントでもある。労賃は、敵対的な闘争durch den feindlichen Kampfで決まるとマルクスは述べているが、闘争するまでもなく、気がついたときには、すでに決まっている。勝利するのはきまって資本家のほうである。Die Notwendigkeit des Siegs für den Kapitalisten.と表現されると、善悪の二元論のように響く。そしてdie Kapitalistenは悪とイメージされるが、事態はそんなに単純ではない。勝利するのは、常に二元論の向こうにあるネットワークあるいはシステムの方であるとすると、現実に近いのではなかろうか。マルクスを読むことは、常に、自分が問われるような気がする。



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