verse, prose, and translation
Delfini Workshop
L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(9)
■旧暦8月7日、日曜日、、強風
(写真)三つ子
メールや郵便の手配など。午後、運動へ。夜、ホットスポット、一時脱出計画を練る。
シオランを読んだときに、マイスター・エックハルト(1260-1328)について、何箇所か、印象的に触れられていた。ドイツ神秘主義の源泉とよく言われ、もともと、神秘思想家とされる人物には、興味はないのだが、シオランを読んで、いったん、そういう枠を外して読んでみようと思い、読み始めた。すると、意外にも、ぼくが感じていたことと同じ趣旨のことが述べられていて、驚いた。それは、キリスト教という宗教の本質に関わることだと思うが、クリスチャンは、ぼくには、とても「せこく」見える。というのは、天国での永遠の生という見返りを求めて善行をつむ側面があるからだ(これは、ある面、仏教も同じだが)。お前ら、そういう取引がないと善行もできんのかい! と突っ込みを入れたくなるのだ。
エックハルトは、マタイ福音書第21章第12節の分析を行うことで、イエスが、商人たちを神聖な神殿から追い出したことの意味について考察していく。ここで、エックハルトは、「商人」の概念を拡大し、神がなにか自分にしてくれることを期待して、断食や祈り、善行を積む人を「商人」と再規定している。端的に行って、主と取引をしようという人々全体を指す。ところが、神の方には、取引の義務はまったくないので、期待はずれに常に終わると言う。ここからは、信仰の世界になるのだが、だから、「あなたは、自分のわざを通じてなしえることをただ、純粋に神の賛美のためだけに行わなければならない」となる。なんだ、結局、神のためかい! とここでも突っ込みを入れたくなるが、エックハルトは神を信じているんだから、仕方ない。
しかし、エックハルトが言うような神との取引で、善をなすのは、やはりどこか、卑しい。一方で、実は、この行動様式が「社会」の総体を構成している。別に、現実は卑しいと言っているのではなく、お金をもらって質の高いサービスや商品を提供するのが、むしろ、資本主義の「倫理」であろう。プロテスタンティズムの倫理が、資本主義の精神へ転化していく、あのプロセスが典型であろう。倫理は、もちろん、プロテスタンティズムに限らない。
さて、ここには、神との垂直の取引と他者との水平の取引が、あるわけだが、そして、垂直取引が水平取引へ組み込まれていくプロセスもあるのだが、この二重の社会的カテゴリーで、存在は取引対象、資本主義では、商品となって現れる。この二重のカテゴリーからはずれると、存在は不可視になる。しかし、これが見える瞬間がある。それが、「神秘」であり「奇跡」と呼ばれるものだろう。それらは、神秘でも奇跡でもなく、二重の社会的カテゴリーの外にある存在(垂直・水平取引外の存在)だと言える。そう考えると、神秘思想は、トンデモ思想と紙一重ながら、ある種の「根源性・批判性」を孕んでいることがわかる。
エックハルトを社会哲学的に読み替えるとどうなるのか、ちょっと興味を持っている。
☆
101. Der 100 Äpfel in der Kiste bestehen aus 50 und 50 ― hier ist wichtig der unzeitliche Character von bestehen. Denn es heißt nicht, sie bestünden jetzt, oder für einige Zeit aus 50 und 50. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 74 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
その箱の中のリンゴ100個は、50個と50個とからなる。ここで、重要なのは、「なる」の非時間的性格である。というのは、100個のリンゴは、今、あるいは、少しの間、50個と50個とからなるというわけではないからだ。
■数学命題と経験命題の違いを探求していく中の断章の一つ。ヴィトゲンシュタインは、二つあげている。一つは、数学命題の「非時間性」。これは、ある実験の結果を語っているのではない、という説明もされる。もう一つは、「内的性質」あるいは「内的関係」。これは、命題が作る全体において、いかなる外的事件とも独立に存立すると説明される。数学命題は、論理命題と言い換えてもいいものだろう。すると、ここでの対照は、「論理」と「経験」ということになる。論理は、非時間的であり、内的関係の存立がそこにはある。
すると、数学命題あるいは論理命題で歴史は語れないのか、という疑問が湧く。たぶん、語れない。数学史は、数学命題ではなく、経験命題で語られるからだ。
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