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Pascal 『Pensées』を読む(22)


■旧暦9月2日、水曜日、

(写真)錦市場の中にある「元蔵」のにしんうどん

京都での食事は、一食は錦市場の中で食べることに決めていたが、時間がずれていたせいで、目当ての店が閉まっていた。しかたがないので、ぶらぶらあるきながら、たどり着いたのが、甘味も出す「元蔵」だった。京都で、にしんと言えば、にしん蕎麦だと思っていたので、うどんを不思議に思って頼んでみた。結論から言うと、かなり旨い。関西の出汁は蕎麦よりも、むしろ、うどんに合うので、にしんうどんはごく自然なのかもしれない。身欠きにしんの甘露煮は、添え物程度の小ぶりなのが出されることもあるが、ここのはがっつりで満足した。九条葱の他に、みず菜と湯葉が散らしてある。



ここ数日のニュースで一番驚いたのは、ニュートリノが光よりも60ナノ秒(1ナノ秒は1億分の1秒)早く観測地点に到着したという、国際共同実験OPERA(オペラ)の研究グループの実験報告だった。ここから>>>

アインシュタインの特殊相対性理論によれば、質量を持つ物体は光速を超えることはないという前提であるから、物理学の常識が覆される可能性が出てきた。特殊相対論によれば、質量のある物体の速度が光の速度に近づくと、その物体の時間の進み方は遅くなり、光速に達すると時間は止まってしまう。光速を超えると、過去へと時間をさかのぼる。

観測誤差は、10ナノ秒以下だという。半年かけて再テストを繰り返しての発表であり、広く、結果を公開して、検証対象としようという意図のようだ。ヴィトゲンシュタインを検討してきて、過去、とくに、歴史の発生というものが、言葉の使用法と大きく関係していることが見えてきた。物理学の「時間」は、基本的に、過去→現在→未来へと直線的に流れるが、この時間の考え方は、近代の世界像が前提になっている。社会や時代によっては、螺旋する時間や現在と過去が同居する時間も存在する。もし、ニュートリノが、過去へ向かうとしたら、物理学の「時間」の概念だけではなく、われわれの社会が成立する土台になっている近代世界像そのものが変更を迫られることになる。それは、行動様式や判断様式、思考様式ばかりか、言葉の使用法や文法にさえ、影響を及ぼすだろうと思う。この観測結果が検証されて、世界化したとき、どんな世界像が現れるのか、実に興味深い。今後、要注目の事件だと思う。「近代」はこういうところから崩れるのかもしれないのである。



Justice, force.
Il est juste que ce qui est juste soit suivi; il est néccessaire que ce qui est le plus fort soit suivi.
La justice sans la force est impuissante; la force sans la justice est tyrannique.
La justice sans force est contredite, parce qu'il y a toujours des méchants. La force sans la justice est accusée. Il faut donc mettre ensemble la justice et la force, et pour cela faire que ce qui est juste soit fort ou que ce qui est fort soit juste.



正義と力
正義にしたがうのは正しい。もっとも強いものにしたがうのは致し方がない。力のない正義は無力であり、正義のない力は抑圧的である。力のない正義は反対に遭う。というのは、常に悪人というものが存在するからである。正義なき力は非難を受ける。だから、正義と力は一体にしておかなければならない。このためには、正しいものに力を付与するか、力のあるものを正しいとするか、そのどちらかである。


■なるほど。まったく同感。正義が反対に遭うのは、悪人がいつもいるからだ、というあたり、原発問題の現状に引きつけると、面白い。「必要悪」なる詭弁をもてあそぶ人もいるけれど、「悪人」の自覚がない。それは、戦争に「良い戦争」がありえないのと同じだとぼくには思えるのだが...。実は、ここからが、この断章の面白い点なのだが、今日は力尽きたので、次回。





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