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Pascal 『Pensées』を読む(21)


■旧暦8月18日、木曜日、

(写真)傘

今夜は、月と金星がきれいである。和歌・短歌は、俳句にまはる前には、いっとき、集中的に読んだ時期があったが、今は、あまり読まなくなってしまった。それでも、西行だけは、例外で、今でも折にふれて読む。西行には、金星と月を詠んだ歌がある。

ふけて出づるみ山も嶺のあか星は月待ち得たる心地こそすれ

ここで言うあか星(明星)が金星のこと。夜更けて深山の頂に出た金星は、とても明るくて、待っていた月を見るような気分になる、というのが歌の意味だが、月はまだ出ていない。月を待つのだから、季節的には、秋だと思うが、寝待月(旧暦8月19日)あたりだろうか。この歌には、詞書がある。「神樂に星を」。動詞が省略されている。おそらく「詠む」ではないだろうか。そうすると、そういう遅い時間に神樂が行われていたことになる。どんな神樂なのか、興味があるではないか。どの神樂なのか、特定はできなかったが、朝まで行われる神樂もあるようだ。西行は、深山を向うに神樂を観たということになるが、月を待つ間に行われるような、なにか月と関わりのあるものではなかったろうか。観月神樂というのは、イベントとして、今でもありそうな気はする。

石川淳の「秋成論」(『安吾のいる風景 敗荷落日』所収)を読み返す。翻訳の延長上にある翻案が創作の一つの有効な方法になりえることを再確認した。ただ、オリジナルは、著作権の切れた古典的な作品でないと、現代では、なかなか、難しいだろうな、とは思う。石川淳自身も、秋成の雨月物語・春雨物語や古事記の、翻案に近いような現代語訳を行っている。石川淳を読むと、深いところで、心が動かされて、気分が良くなる。



Le silence éternal de ce espaces infinis m'effraie.

この無限の空間の永遠の静寂は、わたしを怯えさせる。

■この直前の断章で、人生の有限な時間と空間に想いを馳せている。その有限の時空間が、無限の時空間の中にあるという認識を述べてから、この断章が出てくる。たしかに、そう考えると眩暈にも似たものを覚える。そのとき、自我があれば、だが。




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