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蕪村の俳句(104)


■旧暦8月28日、日曜日、

(写真)蕪村の晩年の住居跡、仏光寺烏丸西入ル

この立て札、ぼくの知らなかったことがずいぶん書いてあったので、メモしてきた。

与謝蕪村宅跡

蕪村は享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたと言われている。20歳の頃、一人江戸に下り、早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。27歳、師巴人が没した後、江戸を離れ、関東・奥羽地方へ長い旅に出る。関東、東北地方を遊歴すること約十年、蕪村は寛延4年(1751)、36歳で京都に上り浄土宗総本山、知恩院の近くに居を得る。3年足らずで京都を去り、丹後宮津へ赴き、浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。42歳で再び京都に戻った蕪村は、姓を谷口から与謝と改め、画を売って生活を立てる決心をし、やがて妻帯する。その後数か所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み、俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生みだしたのである。蕪村の幻の日記に次のように記されている。「安永三年十一月某日(蕪村59歳のとき)、近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空き家ありと、とも(妻)が見つけてまたその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話が決まって三日前に移転をする。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって画絹ものびのびと広げられ心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る」

注 昭和36年までここに路地があり、地蔵尊は昭和22年8月、釘隠町町内会の総意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。

桃源の路次の細さよ冬ごもり   明和6年

■この句は、陶淵明の「桃花源記」の「初極テ狭ク、僅ニ人通ル」を踏まえているが、明らかに、実際の住居が路地の奥にあったことを詠んでいる。今住んでいるここが桃源郷だという、「定住の境地」は、芭蕉晩年の境地に通じる。旅の人、芭蕉と比較すると、蕪村は定住の人のイメージがあるが、最初から、定住者ではなく、還暦近くなって、自分の桃源郷を現実の中に見出したことに感銘を覚える。蕪村に「幻の日記」があったことを、この立て札の説明で初めて知った。

メモを熱心に取っていると、どこからともなく、80を優に超えた老婆が現れ、ぼくを蕪村の句碑まで案内してくれた。その句碑の一つが、この句である。「路地」ではなく「路次」と書かれた句碑の筆遣いを読みかねていると、老婆がすらすら吟じてみせて、こう言った。「蕪村はんの家の前にはな、高島屋の社長が住んではって、庭には、たいそうな白梅の古木がありましたんや。きっと、蕪村はん、その白梅を見てはったんやろ」もう一つの句碑は、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」である。時の裂け目から現れた老婆と白梅。秋天に梅の花盛りが一瞬、見えたような気がした。






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一日一句(231)






秋の寺木槌叩いて案内乞ふ





■蕪村の墓がある一乗寺の金福寺は、厚い木の板を木槌で叩いて案内を乞う。見事に板は中心が丸く凹んでいる。

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