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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(8)


■旧暦8月6日、土曜日、

(写真)9.3柏デモの一コマ

午前中、掃除。午後から、隣街の柏市へ。原発反対デモに参加。柏で初めての反原発デモだった。どんな形であれ、声を上げることは、今、必要だと思う。と同時に、具体的な政策枠組みへと媒介する努力を絶えず放棄しないことが重要だろう。デモの前の集会で、柏市の秋山市長のブログでの発言が問題視されていたので、調べてみた。

quote 2011年07月07日・柏市長・秋山ひろやす活動ブログ『原発事故報道に、のめり込む人』

今回の原発事故の、私の情報収集先は、主にネットです。歴史的な事故ですし、まだ収束していないということで、多くの方がブログなどで原発のコメントをしていることに気付きます。ダイヤモンドオンラインで、精神科医の香山さんが、ネットにおいて原発事故にのめり込んでいる人たちを分析しています。原発事故によって影響を受けている人たちではなく、「個人の事情」によって、のめり込んでいる人を分析しています。

香山さんは、『特に、これまで一般社会にうまく適応できなかった、引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めているように見えます』と分析しています。

彼らは、善悪の評価は別として、社会でやっていくためには「時に自分の気持ちを押し殺しても、周りとうまくやっていく」ということができずに、また「そのような社会」自体に対して嫌気がさしているようです。「そのような、バカみたいな社会」でアクセク働く普通の人を遠くから眺める優越感と、一方で、それでも結局社会に参加できていないという劣等感が混ざった、複雑な心境のようです。

そんな彼らがどうして原発問題にのめり込むのか? 
特に、彼らの間で崇拝されている京都大学の小出裕章氏に注目しています。小出氏は、反原発を主張し、それゆえに原子力の学会から冷遇されていたわけですが、今回の事故で、彼の主張が正しかったと評価されました。

『妥協や打算でなく自分の信念を曲げずに正しいと思うことを信じていれば、いつか自分が正しかったことが証明される』という事実に、自分たちの希望が投影されているから、彼らは小出氏を崇拝していると分析します。
自分たちも社会から外れて引きこもっているけれど、それは社会がおかしいからであり、いつかは自分たちが正しいことが証明されるはずだ、そういう希望の投影だとします。

香山さんは、原発事故にのめり込んでいる『引きこもりやニート』の方は、学習意欲も高く、知的好奇心も高い人が多いと言います。原発は様々な学問の総体です。この奥深さに知的好奇心が駆り立てられ、かつ今まさに「現実の問題」ゆえに、堂々とのめり込んでいくことができるということで、原発が彼らのホットテーマになっているのだろうと分析します。 彼らのネット上での発言などは、ある意味大きな盛り上がりを見せています。

しかし、現実の接点は薄いと、香山さんはいいます。彼らがこれを契機に現実に踏み出してくるのか、あるいは社会が彼らのパワーを活用する仕組みを作るのか。香山さんも、悩ましいまま、文章を終わらせています。

全くわからない世界ですが、精神科医から見ると、そのように見える世界があるということなのでしょう。私には見えない世界ですが、感じるものがありました。

いずれにせよ、生きづらい世の中があり、社会に精神的に適応できない方が多いということだと思います。 社会全体は、このような方々とどう向き合うべきなのか。これからも、引き続き勉強していきます。unquote

■ここには、巧妙な軽率さがある。香山リカさんの分析を都合良く援用して、反原発の印象操作を行っていると言われても仕方がない。小さな子どもを持つ若いお母さんたちが、原発問題に真剣なことを、香山さんのウェブ分析に即して意図的に見逃している。若い人々が原発問題に熱心なのは、社会不適応の補償をしているのではなく、自らの将来の身体に危険を感じているからだろう。反原発の動きが大きくなっているのは、精神的な要因で説明できるものではなく、子どもたちや若い人の命、今後生まれてくる新しい命への危機感があるからだろう。命はいつも社会の中に生まれ、そこで育つ。精神分析の欠陥は、あらかじめ、精神・分析の枠内に分析対象を押し込めてしまうことではないか。言いかえれば、それは、社会分析との媒介を欠く説明物語の大枠が初めからできている、ということだ。その結果、現状を越えようとする契機を見逃すことがあると思う(社会分析と精神分析を媒介した、フランクフルト学派やフランスポストモダンなど、優れた例外はあるにしても)。

デモの帰りにデリ・フランスで、マスクメロンパンを買って帰る。美味!



74. ...Wenn ich also sage: es ist, als spräch dieser Satz das Wesen der Gesalt aus!― so meine ich: es ist doch, als spräche dieser Satz eine Eigenschaft des Wesens Gesalt aus! ― Und man kann sagen: Das Wesen, von dem er eine Eigenschaft aussagt, und das ich hier das Wesen Gestalt nenne, ist das Bild, das ich nicht umhin kann, mir beim Wort Gesaltz zu machen. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 65 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

「この命題は、まるで、形の本質を表現しているかのようだ」と言ったとき、わたしが意味するのは、あたかも、この命題は、形という存在の性質を表しているかのようだ、ということである。また、こうも言える。ここでわたしが形の存在と名づけ、命題がその性質を表現する存在とは、わたしが形という言葉を聞いたとき、思い浮かべざるを得ない像なのだと。

■この断章も、やはり、73番と同じことを言っている。ここで、ヴィトゲンシュタインが、形という存在や形の存在と言っている存在、Wesenは、本質であり、実体であり、存在であり、物自体である。要するに、西欧哲学史全体が探求してきた真理にほかならない。それは、Bild(平面的にイメージすれば「図」であり、立体的にイメージすれば「像」だろう)だと言っている。ここで、注目したいのは、形と言う言葉を聞いたとき思い浮かべる像だと言っている点で、言葉ではない点である。ちょうど、それは夢に似ている。だが、その夢には、すでに言葉が付着している。他の人に語られなかった夢だったとしても。



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一日一句(217)






デモ一つみやげはマスクメロンパン










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