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Pascal 『Pensées』を読む(20)


■旧暦8月14日、日曜日、

(写真)無題

午前中、掃除して、メールを一本。午後から、千葉の葭川公園のデモに参加。参加者は150人くらいだったろうか。右翼の街宣車が10台くらい来て妨害をしていたが、対抗勢力が具体的に現れると、弁証法的な契機が働き、逆に、デモは大いに盛り上がった。おそらく、右翼にも、電力マネーが間接的に入っているのだろう。

右翼がマイクでがなり立てていたことのうち、次の二つが興味深い。一つは、デモの集会が開かれていた葭川公園に街宣車を横付して「おい! 朝鮮人出てこい!」と叫んだのである。これだけの心の歪み方というのは、なかなかないだろう。オーム真理教などのような、強力な洗脳装置があることをうかがわせる。もう一つは、デモ隊に向って「お前ら、こんなところで、気勢を上げていないで、福島のみなさんの役に立ってこい!」という台詞。これは、実に笑えた。これはそのまま右翼に言いたいことである。右翼がボランティアで被災地に入ったという情報を、これまで、聞いたことがない。デモの意味も理解できず、己が何をしているかもわからない。すなわち、見当識がない。

帰りに、また、マスクメロンパンをおみやげに買って帰る。今日は、9.11デモの記念に、tower recordsで半額になっていたウィスペルウェイのアルペジョーネ・ソナタをゲットする。



Il faut en tout dialoque et discours qu'on puisse dire à ceux qui s'en offensent: De quoi vous plaignez-vous?

どんな対話のときでも、どんな演説のときでも、それが原因で腹を立てている人たちに向って、「きみたちは、何が不満なのですか」と言えるようでなければならない。

■これはパスカルの「倫理」なのだろう。だが、他方で、この質問は、怒っている人の基盤になっている価値観を明らかにする。それは、すなわち、その人が所属する集団の価値観だと言っていい。集団が意識を規定する面が大きいからだ。そして、その価値が、全体社会の中で果たす役割や機能も考えさせる。たとえば、デモを妨害するために、ご足労いただいた右翼の皆さんの「愛国心」はだれにとって都合がいいのか。「愛国心」とはそもそもなんなのか。それは観念に対する愛である。具体的な日本人に対する具体的な愛ではない。



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