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Pascal 『Pensées』を読む(19)


■旧暦8月9日、火曜日、

(写真)無題

今日は、日中は晴れていたが、夕方から、夜にかけて、激しい秋の雨。降ったりやんだりで、雨音が遠くから聞こえてくるとこっちも降るという局所的なものだった。一雨ごとに秋の色が濃くなる。秋の季語では、「秋の声、秋声」というのが一番好きで、毎年挑戦するが、どうも、これぞというのができない。いまのところ、相生垣瓜人の次の句が一番好きである。

秋声を聴けリ古曲に似たりけり   相生垣瓜人



福島集団疎開裁判というのが進行しているのをご存じだろうか。6月24日福島地裁郡山支部に、郡山市を相手に郡山市の小中学生14名が年1ミリシーベルト以下の安全な場で教育を実施するよう求める裁判(仮処分)を申し立てた。

次に6月24日発表のプレスリリースを読んでいただきたい。これを読むと、内部被被曝の測定に関しては、7月27日の児玉先生の国会答弁を踏まえると、可能・不可能というよりも、ホールボディスキャンや尿検査といった考え方そのものを変えて、集積がわかっている臓器ごとの検査に切り替えた方がいいように思うが、ファクトに対しては、概ね、まともな解釈と意味づけがなされている。ファクトは、ファクトだけで自存するのではなく、解釈や意味づけと一体であるから、自分が、どういう価値観に立脚するのか、あるいは、自分が、どういう価値観に立脚していたのか、を自覚することがとても重要になる。この場合、正しいのは、この裁判の趣旨のように、「子どもの未来を守る」という価値だろう。実証主義に立脚する人は、それが一つのイデオロギーであることを忘れていることが多い。イデオロギーであるから、使い方次第で、有効にもなれば、害にもなる。

ホームページの左上からウェブ署名ができる。ぜひ、署名して、この裁判に、社会的圧力をかけていただきたい。



Les grands et petits ont mêmes accidents et mêmes fâcheries et mêmes passions, mais l'un est au haut de la roue et l'autre pres du centre, et ainsi moins agité par les mêmes mouvements.

偉大な者も卑小な者も、同じ事故に遭い、同じ悩みを持ち、同じ情熱を持っている。だが、一方は車輪の上部にいて、他方は車軸の近くにいる。だから、卑小な者は、同じ運動に動かされていても、振れ方が小さい。

■ニーチェを思わせるような断章。Les grands et petitsを前田陽一・由木康訳のように、地位の高い者・低い者と理解すると、どうもちぐはぐな気がする。地位の高いエリートほど、社会に守られているから、振れ方が小さくなるように思えるからだ。なので、ここは、精神的な偉大さと卑小さという理解で訳してみた。ちなみに、Krailsheimerの英語訳では、そのまま、Great and smallとなっていて、この辺の呼吸は、欧文同士では楽だなと思わせる。確かに、ある面では、言えるのかもしれないが、それが、庶民、petits、smallの生活の知恵だとも思える。逆に、偉大な者、le grands, Greatが車軸の上に行くのは、そうするほかないから、そうなるような気もする。偉大や卑小というよりも。






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一日一句(219)






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