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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(7)


■旧暦8月5日、金曜日、

(写真)無題

『へうげもの』13巻読了。戦国大名たちが、生きるか死ぬかの戦いをする一方、数寄の価値にも命をかける熱狂ぶりが面白い。茶の湯がベースで描かれているが、俳諧の流行にも、同時に触れてほしいと思う。資料が残っているのかどうかは、わからないけれど、きっと、面白いはずである。うがった見方をすると、「流行」というものが、どのように、戦闘集団を規定するのかを、端的に、表している物語とも読める。

夏が終わった感が日に日に強くなる。今頃、思い出す詩の一つ。夏の一つの終わり方。

As imperceptibly as Grief
The summer lapsed away―
Too imperceptible at least
To seem like Perfidy―
A Quietness distilled
As Twilight long begun,
Or Nature spending with herself
Sequestered Afternoon―
The Dusk drew earlier in―
The Morning foreign shone―
A courteous, yet harrowing Grace,
As Guest, that would be gone―
And thus, without a Wing
Or Summer made her light escape
Into the Beautiful.

Emily Dickinson As imperceptibly as Grief


悲しみのようにひそやかに
夏は去っていった
あまりにひそやかなので
とうとうそれは裏切りのようには見えなかった
静寂がにじみ出てきた
とっくに始まっているたそがれのように
でなければ
引き籠って午後をすごす自然のように
夕ぐれは足早にたれこめてきた
朝はよそゆきの顔で輝いた
丁寧だが、悩ましい優美さ
別れの挨拶を済ませた客のように
そして
翼もなく
舟もなく
われらの夏は軽やかに立ち去った
美の中へ


■われわれには、秋は待たれるものだが、エミリ・ディキンソンのニューイングランドでは、夏は惜しまれるものの感が強いのだろう。秋の語感が、ずいぶん、違うのは、レイ・ブラッドベリの『10月はたそがれの国』を読んだときにも思った。



73.Ich hätte auch sagen können: Wesentlich ist nie die Eigenschaft des Gegenstandes, sondern das Merkmal des Begriffes. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 64 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

わたしは、こう言うこともできた。「本質的」というのは、けっして、対象の属性ではなく、概念の特徴なのだと。

■これは、非常に面白い。普通、「これが問題の本質だ」という言い方をよくするが、このときの、問題は、対象化され、言語とは切り離されている。そういう前提がある。ヴィトゲンシュタインによれば、本質は、問題という対象の属性ではなく、問題を構成する概念の特徴だということになる。一見、カントの物自体は認識できない、という考え方と響くものがあるが、ヴィトゲンシュタインは、「物自体」も一つの言語ゲームだと言うだろう。

ウィトゲンシュタインを読むと、言語なしのコミュニケーションというのを想像してみたくなるが、実際には、それは不可能だろう。絵画や音楽は、言語的な媒介なしにはコミュニケーションできない。手話でさえ、言語を前提に組み立てられている。言語は、ちょうど、目のまえのコップの水を媒介する社会のように、あらゆる存在の媒体なのだろうか。こう考えるとき、すでに、存在と言語を二元論的に捉えているのだが...。



Sound and Vision

以前、貼ったYoutubeは、福島中央テレビが著作権侵害を申し立てて、削除されたので、新たに貼り付けておく。福島のマスコミも福島大学、福島県知事同様、中央の政府・官僚・東電と眷族であることがよくわかる。











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一日一句(216)






瓢箪やひと雨ごとの空の色





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