verse, prose, and translation
Delfini Workshop
双ヶ岡の長泉寺に兼好を訪ねる
2011-09-27 / 旅
■旧暦9月1日、火曜日、、寒いくらいの朝、新月
(写真)双ヶ岡の空
双ヶ岡は、学生の頃から、よく登ったもので、仁和寺や妙心寺が見晴らせる。人もほとんど来ないので、好きな場所の一つである。ここが吉田兼好が庵を結んだ地だと初めて知ったのは、三里塚闘争に参加して神経を病んだ中核派の元闘士からだった。取合せの意外さに、いつまでも記憶に残り、人づてに、その人が、西行や兼好、芭蕉などの古典文学を深く愛好していたことを知った。双ヶ岡は、古代の古墳で、3つの丘からなっている。仁和寺方面から登ると、森を抜けて、突然丸く光が差し込む二の丘の頂上に出る。
歩道には、「イノシシ注意」のステッカーが。シダ類が凄かった。
突然の青い空
御室仁和寺を眺める
双ヶ岡周辺は、竹林また竹林。ある種の結界だろうか。そう言えば、内裏には松林があった。これは、完全に結界だろうと思う。
付近の中学生があどけない。
兼好の墓を探して長泉寺へ。
長泉寺境内の老松
兼好の庵跡の石碑。長泉寺の墓所の中。
兼好の墓所を示す塚と石碑。
実は、この長泉寺は、元禄時代に建立されたものらしい。兼好は鎌倉末期の人なので、当時の墓は残っていない。この辺りにあったであろうという塚らしい。兼好の庵が、麓の長泉寺付近にあったようなのである。ぼくは、てっきり、仁和寺などを眺めながら、山中で庵を結んでいた「本物の世捨て人」を想像していたが、仁和寺にほど近い丘の麓に住んだ「精神的な世捨て人」というのが実体に近かったのではあるまいか。兼好は、仁和寺とゆかりの深い人だったので、宗派的には、真言宗になる(元をただせば神道だろうけれど)。徒然草を読むと、法然に深い敬愛の念を抱いていたことがわかるが、浄土宗の長泉寺は、兼好存命中には、存在しなかったことになる。石碑には、「ちぎりをく 花とならびの をかのへに あはれいくよの 春をすぐさん」という兼好の歌が彫ってある。
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