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Cioranを読む(58)


■旧暦8月15日、月曜日、、中秋の名月

(写真)秋の左手

午前中、入金や買物。午後から、仕事に入る。夕方遅くから、運動。気分良し。月を観て、しばし、息抜き。深蒸茶にうさぎ饅頭w。中秋の名月は、6年ぶりというから驚く。どれだけ、この季節、天候が悪かったのか。十三夜が好きなので、10月9日も楽しみにしている。



Être appelé déicide, c'est l'insulte la plus flatteuse quéon puisse adresser à un individu ou à un peuple.

神殺し―これこそ、個人にせよ、民族にせよ、浴びせられた侮辱の中で、もっとも、その自尊心をくすぐるものである。  Cioran Aveux et Anathèmes p. 42

■déicide(神殺し、形容詞、名詞)。フランス語で一語。日本語で、二語。英語では、deicideでやはり一語。ちなみに、ドイツ語では、der Gottesmöder(神を殺した人)あるいは der Gottesmord(神殺し)で、日本語と同じように、二語からなる合成語。ラテン系の言葉では、一語で表現されている点が面白いと思った。民族的には、当然、ユダヤ民族を指すことになる。

現在はどうか、わからないけれど、フランス語圏、英語圏で、一語でdéicide/deicideが残っているということは、それだけ、日常生活の中で、この言葉を使用した言語ゲームが頻繁にあったということだろう。シオランの言うように、罵詈雑言のたぐいなのだから、ますます、興味深い。二語になると、やはり、迫力がなくなる。「この神殺しめ! Gottesmord!」

シオランの感覚では、この言葉は、自尊心をくすぐる、ということだが、実際の言語ゲームでは、かなり辛辣に響くはずである。今でも、フランスでは、無神論者であることを公にするには勇気がいると聞く。それだけで、噂の種になるらしい。

個人に対して、そうなのだから、ユダヤ民族に対して、この言葉を使えば、相当な侮辱になるのではないだろうか。

ぼくは、このシオランの断章をとても面白いと思った。社会で、「侮辱」「罵詈雑言」「悪態」などといった否定的な価値づけがなされているものの中にこそ、新しい価値の萌芽があるように思えるからだ。シオランは、déicideの使い方を逆手に取っている。ここには、やはり、ニーチェの声が響いているように思う。ドイツで、déicideが一語で表現されなかった社会的背景あるいは論理は、なかなか興味深いが、今は、考える材料がなさすぎる。









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一日一句(223)






旋律のごとく舞ひたり秋の蝶





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