駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

仕分けられるかこの病み

2009年12月06日 | 世の中
 一般の人がどの程度気が付いているかわからないが、実は内科系の町医者に来る患者さんの四分の一程度は身体的な病気がないかあっても軽微な人達だ。わかりやすく云うと人生の不具合を身体の不調として訴える一群の患者さん達が居る。こうした患者さんの半数は訴えることで安らぎが得られ、検査に異常のないことで軽快してゆく。しかし、残りのかなりの部分は検査に異常がなくても安心できず話を聞いてもらっても心が安らぐのはその時だけで、繰り返し通院されたりくるくると医者巡りを始めてしまう。結局、そこはかとない不全感と共になんとなく不満あるいは憂鬱に生活することなる。
 こうした患者さんは精神科や心療内科の対象になるのだが、ご本人はそれを認めないことが多いし、そうした科を受診しても簡単には解決が得られないので通院が長続きしない。家庭や職場では神経病みとして疎んじられ、なかなかくどくどと身体の不調を訴える機会に恵まれない。身体的な疾患を診ることを仕事だと心得ている医師は見切って、満足行くほどは聞いてくれない。
 何でも診る町医者はこうした患者さん達との距離の取り方が難しい。どこにも受け入れられないのだから親切にしてあげたいのだが、患者さんは際限なく訴え、医師に依存する傾向があるので、聞いている方が頭痛がしてくる。しかも時間がかかり他の患者さんに迷惑がかかるし、事務や看護婦から手のかかる患者さんと苦情が出てくる。厳しいようだが、どうしても節度を持って対応せざるを得ない。
 こういう患者さん達の病根はおそらく現代社会への不適合にあると診ている。誤解を恐れず云えば、複雑な社会に追いついて能力が不足しているのだ。どうしても医師だけでは十分な対応ができない。
 そうするとどういうことになるか、これをニッチといっては大きすぎる隙間ではあるが、有り体に言えばこうした一群の人達を世話するために(餌食に?)玉石混淆魑魅魍魎が活躍することになる。社会はそうして傷を舐めつつ回っている。これが無駄かどうかは難問だが、自らを正常と思い社会に適合できている人達には無駄と映るだろう。この法の立場からは違法というより不法の領域に仕分けが切り込むことが可能だろうか。難問で気持ちよい問いかけではないが、忘年会二日酔いの頭で書いてみた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする