玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

28)鯨こい家一門会寄席

2006年05月07日 | ピースボート世界一周

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 10月4日ファイナル寄席に向けて一週間の中、船内新聞で拾っただけでも、午前午後と予行演習を含めて併せて少なくとも13回の練習が行われたようだ。時間外の自主練習もあったろう。

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 弟子の募集には年齢制限は設けられなかったので、若人から熟年、老年に至るまで参加者があったようだ。夜はバ-に変身するスポーツバーでは午前中に玉簾の特訓が。午後はシアターで朝夕に上演される映画の間を縫って寄席の特訓がなされていた。

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 たまに近くを通ると、練習の声や簾の竹の音が漏れ聞こえてきて、練習風景が垣間見えた。そんな慌しく厳しい一週間が過ぎていよいよファイナル寄席当日がやってきた。こういったイヴェントの多くはそうだったが、予行演習や飾りつけのため、会場は締切られ立ち入り禁止になる。そしていよいよ期待感は高まり、指定の時間前には長い廊下に長蛇の列が出来た。

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 さていよいよ開演。会場には本格的な高座がしつらえられ、演目も正式に書かれていた。揃いの衣裳を着た玉簾が終わると、一婦人の口上の下「はじまり~はじまり~」と拍子木が打ち鳴らされた。菊千代師匠に命名してもらった弟子達は一人づつ和服を着て登場し、高座に上がり弟子名を名乗って寄席は始まった。

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 演目は「南京玉簾」「リレー落語」「小噺」「大喜利」であった。「玉簾」には約10名余だったろうか?大方揃っていたが長老が参加されており、ご本人は大真面目だが2、3歩遅れ、聴衆はハラハラで可笑しかった。「リレー落語」は一つの落語を10人の弟子で仕上げ、「小噺」は数名の弟子が個性に合った小噺を披露していた。圧巻は「大喜利」。客席から声の掛かった「フレーズ」を使い「~と言えば~と説く。その心は~である。」という風に淀みなくこなせていた。

Naoshi 私など、こんな風に本格的に仕上がるとは思ってもいなかったので、多いに楽しめた。当事者はひとしお満足であったろう。それにしても菊千代師匠はスゴイ!!。練習場になったシアター。スポーツバー。寄席本番。写真不足で残念。

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27)日本国憲法・59歳

2006年05月04日 | ピースボート世界一周

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 私は単純に「退職後の骨休みとして、今まで出来なかった長旅をやるのもいいカナ~」との気分で船に乗った。説明会の過程の中で色んな学習の場があり、興味深々であったことは確かだった。

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 そこで初期に出会ったのが「平和について」「憲法問題をどう考えるか」であった。最初の寄港地がベトナムということもあって、ベトナムを母国とする女性が、母国の紹介や未だに残るベトナム戦争の置き土産「枯れ草剤の後遺症」を報告した。

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 乗船中の記録映画監督ジャン・ユーカンマン氏は戦争当時、交換留学生として慶大付属高校に初来日していた。その折日本の憲法に憧れを感じ数回の来日や在日12年の中で、一昨年自衛隊のイラク派遣以来憲法改正論議に危機感を抱き、最新作「日本国憲法」を作った。8カ国でのインタビューをまとめた映画は洋上で公開され「特に9条は宝物であり、将来への希望が凝縮されている」とアピールした。

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 船上では「憲法を守る会」と銘打って集会が繰り返され、自分や親の戦争体験や、教え子に「祖父母から聞いた戦争体験」の作文指導など報告がなされていた。私も時々参加したが、特に若者に参加を呼びかけていた。

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 そして迎えた5月3日。考えるほどに難しい。憲法は国そのものだ。運用次第で拡大解釈もされ得る。戦争を好む個人は居まい。誰が我が子を戦争に差し出そう。戦力の放棄。これは必須事項だ。しかし今の日本周辺の動きは余りに騒がしい。企業レベルで考えるとどうだろうか?今のアメリカがそうであるように。そう考えると恐ろしい。監督の写真がなく9ヶ国語を操り世界平和を訴える鳥取大の「地球人」提唱者のキップ氏と。

 

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うさぎの貯金箱

2006年05月01日 | 捨て猫の独り言

 双子の私たちは2ヶ月も早く生まれました。パパとママと2人のおばあちゃんと2人のおじいちゃんは妹のことをとても心配しました。なぜかというと妹は1000グラムに満たない体重で生まれたからです。私も1500グラムぐらいでした。妹は新生児集中治療室の保育器の中で3ヶ月も一人ですごしてから退院しました。そういうわけで妹は生まれたときから頑張り屋さんでした。

 ときどきK市のおじいちゃんおばあちゃんの家に行きます。Kのおばあちゃんは私たちに畑のトマトやキュウリを採ってきてと言います。そんなこと自分でやればいいのにと私は思います。Kに行くといつも200円もらってうさぎの貯金箱に入れます。貯金箱のために何回でも来ると思っているようです。そんな作戦なんて私は前から全部知っていました。ちょうど私たちが1年生になる前にSのおじいちゃんが亡くなりました。黒い服を着てお葬式や一周忌などをすませました。

 私たちも2年生になりました。ヤマハのポータトーンという楽器をKのおじいちゃんにお下がりすることにしました。おじいちゃんは楽譜も読めないんだそうです。自動で曲が鳴ったり、弾く音の鍵盤が光ります。私はこれでエリーゼのためにを覚えました。弾き方をおじいちゃんに教えようと喧嘩になり妹が私を叩きました。仕方がないので私がゆずりました。

 その日パパの妹のイズミネエネたちも来ました。アメリカの人と結婚しました。前よりも大きなお腹になっていました。イズミネエネは体重が11キロも増えたそうです。私たちのときと違って大きな赤ちゃんのようです。2人でキスしてごらんと頼んだら、平気でして見せてくれました。貯金箱にお金を入れるのを忘れてしまいました。こんなことはじめてです。

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