玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*華は愛惜に散り

2020年04月27日 | 捨て猫の独り言

 今年ほど庭の草取りに精を出したことはなかったのではないか。外出自主規制で草取りと、ストレッチを熱心にやるようになった。芝生の中、密集したツワの葉の下、畑の中などに名も知らぬ小さな雑草がはびこる。また燐家の壁とのせまい隙間に地衣類がびっしり生え、削り剥がすとドクダミに似た香りが鼻をつく。(キンラン24日、26日)

 

 草取りをしていると、道元の正法眼蔵にある「華は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きげん)に生ふるのみなり」を思い出す。「美しい花は、みんなから愛され、惜しまれる。だから花は散ってゆくのだ。逆に路傍に生えている雑草は、みんなから棄てられ、嫌われる。だから草は、ますますドンドン生えてくるのである」

 私が最初に教わった解釈は「華は人生における楽で、草は人生における苦」というものだった。苦からストレートに逃げようとするとかえって苦は倍加して、その人を追いかけてくる。楽をストレートに求めようとすると、かならず楽は、その人から逃げてゆくものだ。そんなへそ曲がり的なことがこの人生にはある」

 つまり「しあわせをも求めず、不幸をもきらわず」という世界に、ドッカとわが身をゆだねると、本当に、あらゆるものが楽しくなってきてしまうということだ。つぎのような解釈もある。「花は人に喜んでもらいたいために咲いたわけでもなく、雑草は人に嫌がらせをするために生えたのではない。人の都合で勝手に良いの悪いのと差別する」

 またつぎのような受け止め方をする人もいる。「桜の花が散り、雑草が生えるという現象は人間の感情を越えたところでのいのちの営みである。この世界のすべての存在とその有り様は、いのちが顕現した一瞬一瞬の姿であり、そこにいとおしさを感じずにはいられない」 

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