玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*二つのなるほど

2014年02月03日 | 捨て猫の独り言

 駅前商店街にある個人経営のパン屋さん、写真屋さん、八百屋さんが昨年暮れから、つぎつぎと閉店した。それぞれの店主の顔が浮かんできてこちらまで悔しい思いにさせられる。とくに写真屋さんは私の息子と小学校での同窓生でもある。商店街のはずれには広大な空き地があり開発を待っている。高校の野球場があったところだ。つい先日に野球場跡の近くにある保存樹林の一角ではムクの大木が一夜のうちに伐採された。小鳥たちの貴重な餌場になっていた大木だった。玉川上水の緑道から向こうの住宅群が見えて味気ない風景に一変した。

 私の住んでいるところは小平市のはずれだ。すぐ南に国分寺市が隣接している。ある日のこと散歩コースを南の国分寺の区域に変えてみた。農道を通り五日市街道沿いに出ると新しく建て替えられた神社があり、さらにその南には砂川用水が流れていた。小平と同じで江戸時代の新田開発の名残りがあちこちにある。用水の傍には公民館と一体になった図書館があった。これまでには気付かなかった建物であり、こうして散歩することがなければ知りえなかった風景がある。この機会に昨年の11月から始まった「図書館の相互利用」の制度に私は登録した。ここは距離的にも近く小平とは休館の曜日も異なり、また本の揃えなども異なる様子なので新鮮な気分である。

 歌人の永田和宏の「作歌のヒント」を読んでいる。俳句と短歌の違いをつぎのように述べていた。「俳句は感情を交えず、動詞や助詞で言葉を続けるというよりは、切れ字の効果を最大限に生かしてものごとの鋭い切り口を示す」「短歌は助詞、助動詞の微妙な翳りや、動詞の力によって、日常の縁に生起する感情の繊細な切り口を私の感情として抒(の)べる」短歌でよく聞く「写生」についての永田の定義は「対象のもつさまざまの属性の中の、ある一点だけを抽出し、あとはすべてを表現の外に追い出してしまう暴力的な選択」となる。「念を入れない、駄目を押さないこと。この駄目を押したがために、せっかくの作者の意図が押しつけがましくなる」

 政治学者の姜尚中の「悩むこと生きること」を読んでいる。信濃毎日のコラム連載をまとめた本である。「<愛国心は卑怯者の最後の隠れ家である>18世紀英国の批評家サミュエル・ジョンソンの有名な警句だ。この数年、中国や韓国、日本を見渡して、この言葉ほど胸に突き刺さる警句はないのではないか」「夏目漱石は講演の中で<国家国家と騒ぎ廻るのは火事の起こらない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら町内中を駈け歩くのと一般>であると指摘している。国家的道徳がいかに低級なのか知悉していた漱石の目には<徳義心の高い個人主義>にこそ重きを置くべきに違いなかった。至る所で愛国が肩で風を切って闊歩する現在、ジョンソンや漱石のひそみに倣いたいものだ」

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