玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*講演「親鸞論」

2018年09月07日 | 捨て猫の独り言

 吉本隆明の出水市での講演記録を読んだ。講演は1976年の「最後の親鸞」の上梓から7年後である。「じぶんとしては親鸞についてなにか書いたり語ったりするたびごとに、いくらかずつ新しい理解みたいなものがひらかれるような気がしました」と冒頭で述べているように、親鸞は吉本の関心の的で在り続けたようだ。講演では親鸞の生涯の三回の転機、師である法然と親鸞とのニュアンスの違い、親鸞の到達点が語られている。のちに吉本は死に対する親鸞の考え方を「自然に死ぬべきときがきたら死ねばいいんだ無理して浄土に行こうとすることはない、現世のほうが執着が多いから死にたくないのも本当だよというふうに悟っている」と紹介している。(湯島聖堂と神田明神)

 

 講演の内容にもどります。肉体を痛めつけたり、精神を痛めつけたりして修練を重ねた挙句に、幻覚状態で浄土の光景を思い浮かべられるようになったり、仏様の姿が目の前に思い浮かべるようになるということはただの幻覚で何の意味もないことだと比叡山を出ます。そして専修念仏を主張していた法然のところへ行きます。「法然とか弟子たちは、ただ言葉だけで名号を唱えればいいと言っている。仏教としては堕落以外のなにものでもない」という批判が出ます。しかし法然とくに親鸞は口先だけで名号を唱えればいいと言いきっていると思います。

 なぜなら、じぶんに念仏を唱えようという心があって念仏が出てくること自体が、自力を意味します。法然の場合には少なくとも念仏の方が唱えやすいからこちらの方がいいんだという言い方があります。しかし 親鸞はむしろ逆で、すぐれていようが劣っていようがじぶんで善行を行い浄土へ行こうなんて考えている人間はほんとの浄土へは行けなくて、かならず化土に行くことになるとみなしています。化土にひとたび行って、なおそのうえでつとめなければほんとの浄土に行けないと言っています。

 人間の自力でできることはそれほど大きな規模のものじゃない。何かわかりませんが浄土の宿主である阿弥陀如来の持っている規模の方がはるかに大きい。親鸞の最後の信は人間の自力でできることに見切りをつけ放棄することを意味していると思います。戦乱は絶え間なくあるし、疫病ははやる、飢饉がおこってものをたべることをできないで死んでゆく人がたくさんいます。仏教はどうそれに答えたらいいのかという問題に対して、法然や親鸞は何とかして答えようと考えていたと思います。そこが当時のえらい坊さんである明恵上人などとちがうところだと思います。

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