まず二度と手にすることはなかろうと思われるものが家のなかには数多く放置されている。一年を通じて着ることがなかった衣服は処分すべきというアドバイスもあるがなかなか決断できない。もっと心を痛めるのは文学全集などの本である。数学の専門書など一冊を読み通すのも難しい。がらくたは身近に数多く存在し続けている。悲しいことだが、そのうちこの私の体もごみとして処理される時が来るというわけだ。
3月末にがらくたを整理していたら小倉百人一首の小箱が出てきた。だいぶ前に孫のためにと親から贈られた物だ。孫すなわち子供達はこれに一度も手を触れることなく家を出て行って今は居ない。朗詠カセットテープ付で任天堂が出したものだ。この機会にこれまで埋もれていたこのカルタを私が日の目を見せてやろうと思い立った。カセットテープは片面50首で約30分朗々と読み上げられる。読み札の人物画も楽しめる。
最近私は生まれて初めて和歌に少しばかりの興味が出てきたところだ。毎日のようにまずこのテープの50首を聞き流し、日に一首を暗記することができたらいいなと考えたりした。百首になじむまで継続できるかどうか自信はない。飽きっぽいのは私の属性である。小倉百人一首は775年前に藤原定家が約550年間の歌の中から選んで、京都嵯峨の小倉山の別荘で百首を屏風に書き写したものだ。道元の正法眼蔵もこの頃だ。
その中で西行法師の歌は「嘆けとて月やは物をおもはする かこち顔なるわがなみだかな」である。この歌は同じ百人一首の中の大江千里の「月みれば千々に物こそ悲しけれ 我身ひとつの秋にはあらねど」を受けているような感じがある。月は物を思わせるのか、いや思わせはしない、それにも拘わらず、自分は月を見て悲しい思いに涙している。西行にはこころを歌ったものが無数にある。内省的な歌風である。「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」はあまりにも名高い。