あられの日記

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飛鳥山公園にある晩香盧

2013年06月09日 05時11分41秒 | レトロ建築
昨日紹介した青淵文庫と芝生広場を挟んで建っている晩香盧。この建物は渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って、1917(大正6)年に現在の清水建設(株)が贈りました。栄一は内外の賓客をここに迎え、歓談を交えながら交流しました。中心となった談話室には、当時の面影が残る家具調度品がそのまま残っています。

室内には遊び心たっぷりの動物のレリーフや、ハートの形の彫刻や、ヨットやヤシの木、カモメなど。来客が日本の方だけでなく外国の人も招いていたのだろうと想像しただけで楽しいでしょ?ぜひとも紹介したい所ですが、晩香盧は室内撮影禁止なのです。ぜひとも直接訪問してご覧下さい。
屋外の照明。
晩香盧の名前は菊の花から。栄一はある園遊会で「菊の花だけは晩節の香りがあり、後れて節を守るような香りがする」と延べました。菊を晩香の象徴であるといい、「晩節を清く」という想いをこめているのです。(説明文はちらしより転用)

晩香盧の前に渋沢栄一の像がありました。
訪れた当時は像の前に満開の桜の樹が。
晩香盧・青淵文庫・渋沢栄一史料館3館共通入館料有り・各種割引入館料有り。
渋沢栄一史料館
訪れた2013年3月23日は、渋沢栄一と王子製紙株式会社~国家社会の為にこの事業を起こす~の企画展が開催中でした。上の桜の額絵のようなものは史料館の2階の窓。桜の時期限定で撮影可能になる窓です。

桜の飛鳥山公園です。
飛鳥山公園は、江戸享保期に徳川吉宗が享保の改革の一環で行楽地として造成・整備しました。吉宗は安心して花見が出来る場所をと、飛鳥山や隅田公園をつくったのね。
wikiによると、
明治6年、上野公園・芝公園・浅草公園と共に日本で最初の公園に指定。
明治12年、渋沢栄一が飛鳥山に別荘を構える。1901年から栄一が死去した1931年までは本宅として使用。
昭和20年、東京大空襲罹災。旧渋沢住宅の大部分を焼失。
飛鳥山公園にある東京都交通局6000形電車(1949年製造)
昭和53年まで荒川線を走ってました。
花見客があちこちで楽しんでいたのです。なので園内に残る石碑を撮影してまわれるのは無粋と、目についたものだけ撮影。


飛鳥山の碑
この石碑は飛鳥山の由来を伝える元文2年(1737)に王子権現(現・王子神社)の管理者が建てたものです。
当時の漢学者が智慧を縛りまくって文章を書いたため、江戸のほとんどの人が読めなかったとか。読めない事で有名になったというちょっと変わった石碑です。

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