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バレエ・リュス人脈-5(アンナ・パヴロワ~ポリアコフ兄弟~ユダヤ人職業訓練基金)

2023年08月29日 | 人物

バレエ・リュスの看板ダンサーを務めたアンナ・パヴロワは、ロシアの(ポーランド系)銀行家ラザール・ポリャコフの私生児と言う噂がありました。

アンナ・パヴロワ - Wikipedia

抜粋:

アンナ・パヴロヴナ・パヴロワ (露: А́нна Па́вловна Па́влова, Anna Pavlovna Pavlova, 1881年2月12日[1] - 1931年1月23日)は、20世紀初頭のロシアのバレリーナ。

来歴
サンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれる。戸籍上は退役兵マトヴェイ・パヴロフと洗濯婦リュボーフィ・フョードロヴナ・パヴロワの娘となっており、本名はアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ (А́нна Матве́евна Па́влова)。しかしパヴロワ本人によれば、実父はマトヴェイとは別人で2歳のときに亡くなったといい、1913年の新聞報道ではユダヤ系銀行家ラザル・ポリャコフの私生児とも報じられ、真相は謎に包まれている。

9歳の頃、母親とともに 『眠れる森の美女』 の初演を観てバレエダンサーを志す[2]。帝室バレエ学校に学び、1899年に卒業する。卒業時の試験が優秀であったため群舞を経ずにコリフェとしてマリインスキー・バレエに入団した。色白・細長の顔に狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持っており、最晩年のM・プティパに才能を認められたため、貧しい家の出であったにもかかわらず順調な昇進を果たした。1903年、プティパによる改訂版『ジゼル』 で成功を収めたほか、バレリーナ昇進後の1907年には慈善公演でM・フォーキン振付の小品 『白鳥』[3]を踊って話題となった。後者はのちに 『瀕死の白鳥』 と呼ばれるようになり、パヴロワの代名詞のようになった。マリインスキーの若きソリスト、V・ニジンスキーと初めて踊ったのもこの頃である。

1908年、パヴロワはマリインスキーの舞踏手20名を率いて墺、独、瑞などを巡演した。同じ頃バレエ・リュスの旗揚げを企てていたS・ディアギレフは、看板ダンサーとしてニジンスキーとパヴロワの組み合わせを考え、こちらは1909年6月にパリにおいて 『レ・シルフィード』 公演として実現した。

ラザール

Lazar Polyakov - Wikipedia

の兄、サミュエルは、ユダヤ人職業訓練基金(ORT)の創設者のひとり。

Samuel Polyakov - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

サミュエル (シュムエル) ポリアコフ (ポリアコフ、ポリアコフ、ロシア語: Самуил Соломонович Поляков) はロシアの実業家で、非公式にはロシア帝国の「最も有名な鉄道王」[1] として知られ、ポリャコフ実業家の上級メンバーでした。 慈善家でユダヤ人の公民権活動家、World ORT の共同創設者。 ポリアコフのビジネス上の利益はロシア南部とウクライナに集中していた。 50歳で突然亡くなるまでに、彼はロシアの鉄道の4分の1を建設したとされており[2]、彼の個人純資産は3,140万ルーブルと推定された[3]。

 

World ORT - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1880年、サミュエル・ポリアコフ、オレス・デ・グンツブルク、ニコライ・バクストは、当時貧困の中で暮らしていた何百万ものロシア系ユダヤ人の生活を改善するための援助基金を設立する許可を皇帝アレクサンドル2世に請願した。 この基金は手工芸品や農業技術などの実践的な職業に関する教育と訓練を提供し、人々の自助努力を支援する予定だ。 許可が与えられ、ポリアコフとデ・グンツブルク、そしてアブラム・ザク、レオン・ローゼンタール、メーア・フリッドランドの署名を得て上訴が送付され、これがロシアのユダヤ人の間の貿易と農業労働協会の設立につながった。 ORT は最初の 25 年間で教育水準を向上させ、ロシア帝国全土の 25,000 人のユダヤ人に訓練を提供しました。 人々は吹きガラスの職人として訓練を受け、裁縫やガーデニングを学び、機械工、家具職人、家具デザイナーとして訓練を受けました。

他のORT創設者:

Horace Günzburg - Wikipedia

彼の親戚の一人であるディミトリ・デ・ギュンツブルク男爵( Baron Dimitri de Gunzburg)はバレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフのパトロンの一人でした。

ニコライ・バクストについては情報がありません。

バレエ・リュスに協力した芸術家のレオン・バクストはペンネームですが・・・

レオン・バクスト - Wikipedia

Léon Bakst - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

最初の展覧会(1889年)の時、彼はバクストという姓を名乗ったが、ペンネームの由来はいまだ不明である。 少なくとも3つのバージョンがあり、主要なものによれば、母親の祖母の旧姓はバクスターだったという[7]。 レオンの生涯の友人であるアレクサンダー・ベノアは、「レオは、その姓が遠い親戚の何人かの名前にちなんで付けられたものであるという、長々と混乱を招く説明をした」と回想した。

LÉON BAKST. His Family and His Art | The Tretyakov Gallery Magazine

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