Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

欧州映画界とブルジョア-番外編(小児愛者が今も昔も)

2024年09月19日 | 欧州映画界ネットワーク

しかしまあ、1959年のフランスの「ピンク・バレエ事件」

欧州映画界とブルジョア-21(1959年ピンク・バレエ事件) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

現代は、もっとパワーアップしてます。

未成年どころか、エプスタインのところにいた、おそらく10歳以下と思われる少女たちの映像があります。

New Videos of Billionaire Kids on Jeffrey Epstein Island Go Viral (youtube.com)

 

これは、告発して、自殺(他殺)したアイザック・カッピーの英語のwikipedia。

Isaac Kappy - Wikipedia

Google翻訳:

カッピーは映画『ビアフェスト』(2006年)でハスラー役で長編映画デビューを果たした。その後も映画『ノット・フォーゴットン』『ファンボーイズ』『ターミネーター4』『セント・ジョン・オブ・ラスベガス』(いずれも2009年)、『クラウン・キャンプ・マッサカー』(2010年)、『レモネード・マウス』『マイティ・ソー』『10イヤーズ』(いずれも2011年)に出演し、テレビシリーズ『ブレイキング・バッド』『ナイトシフト』『レイチェル・ドラッチのレイト・ナイト・スナック』にも出演した。[4][5] ミュージシャンとして、カッピーはトム・サンドヴァルとともにバンド「チャールズ・マクマンション」で演奏した。このグループは「T.I.P.」(Touch In Publicの頭文字)という曲を1曲リリースし、リアリティ番組「ヴァンダーパンプ・ルールズ」にも出演した。[6]

私生活

カッピーは2018年8月にアレックス・ジョーンズのラジオ番組「インフォウォーズ」にゲスト出演し、トム・ハンクスやセス・グリーンなど複数の映画スターを小児性愛で告発した。これは、世界的な児童性的人身売買組織を運営する児童虐待者の結社に関するQアノン陰謀説の一環である。[6][7][8] 放送中、ジョーンズはカッピーにもっと慎重になり、「名前を口にしない」ように求めたが、カッピーはジョーンズが彼の主張に疑問を投げかけることで「ガスライティング」をしていると簡単に主張した。[9] デイリー・ビーストは、この頃カッピーがQアノン運動の「英雄」になったとニュース欄で報じた。[10] 彼の死後数年で、彼は自殺ではなく、彼の政治的見解による不正行為の犠牲者だという陰謀説が生まれ、リン・ウッドなどの陰謀論者によって広められた[11]。[12]

法的問題

2018年、カッピーは女優のパリス・ジャクソンと俳優のセス・グリーンを脅迫したと報じられた後、警察の捜査を受けた。[13][14] ジャクソンは、2人が出席していたパーティーでカッピーが首を絞めたと非難した。[2][13] ロサンゼルス警察(LAPD)は捜査を認めたが、2018年8月時点では捜査は行われていないと述べた。[15] 死 2019年、カッピーはアリゾナ州で高架から飛び降り自殺した。橋の傍観者2人がカッピーが橋から飛び降りるのを阻止しようとしたが失敗した。[16] 死の前後、彼のInstagramアカウントに長いメモが投稿され、その中で彼は自分がイスカリオテのユダの生まれ変わりであると主張し[12]、薬物とアルコールの乱用について打ち明けた。彼はまた、イエス・キリスト、ドナルド・トランプ、QAnonに謝罪した。この投稿には「失うものが何もない男には気をつけろ。彼には守るものがないからだ」というキャプションが付けられていた。[1][2][3][17]

 

彼が陰謀論者であるとしても、エプスタインのところにいた少女たちの姿は本物では?

 

日本にも、プチエンジェル事件というものがありましたが、ほとんど話題にされませんでした。

プチエンジェル事件 - Wikipedia

 

こちらのブログ記事に書いたこの事件も簡単に幕。

欧州映画界とブルジョア-16(『プリティ・ベビー』(監督ルイ・マル)と『ダウンタウン物語』(監督アラン・パーカー)) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

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欧州映画界とブルジョア-22(ピンク・バレエ事件の容疑者元女優~カール・T・ドライヤー~二コラ・ド・ギュンツブルク)

2024年09月19日 | 欧州映画界ネットワーク

欧州映画界とブルジョア-21(1959年ピンク・バレエ事件) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
から:

エリザベート・ベナジェフのフランス語版Wikipediaによると、彼女はピンクバレエ事件で少女たちに踊りなどを教えていただけでなく、アンドレ・ル・トロケールの愛人だったらしいです。(前回載せたwikipediaには、トロケールの愛人の部分は「画家の愛人」と書いてあったので、「画家」でもあったベナジェフと同一人物とは思わなかった。)

Elisabeth Pinajeff — Wikipédia (wikipedia.org)

エリザベート・ピナジェフ、芸名イエリザベータ・セルゲイヴナ・ピナイエワ(ロシア語: Елизавета Сергеевна Пинаева、1900年4月4日にヴィンタートゥール1で生まれ、1995年12月31日にヴィルモワソン・シュル・オルジュで死去)は、ロシアの女優である。

バイオグラフィー

建築家のS・ピナイエフとA・ポポワ伯爵夫人の娘である彼女は、ハリコフでパントマイムのミハイル・タルハノフの授業を受け、ロシアのサイレント映画2本に主演した。 19 歳で結婚した最初の夫であるエンジニアがドイツからの注文を受けると、彼女は夫を追ってベルリンへ向かいました。

その後、彼女はカール・テオドール・ドライヤー監督が1921年の映画「Love One Another」の新聞広告で本物のロシア人を探していたという事実を利用した。エリザベート・ピナジェフは主役を獲得し、1920年代のドイツのサイレント映画に何度か出演した。 1928年から1929年にかけて写真家のアレクサンダー・ビンダーと短期間結婚した。

1930 年に彼女は最初のトーキング映画を製作しました。彼女は亡命ロシア人で映画プロデューサーのマルク・ウドドフスキの愛人となる1。彼女は19322年からリリー・ドレルというペンネームでフランス映画に転向したが、1930年代には無名になり、1938年にキャリアを終えた。 彼女は 1948 年にウドドフスキーと別居し 1、SFIO 副議長兼国会議長であるアンドレ・ル・トロケールの愛人となった。

彼女は、1959 年に明らかになったフランスの小児性愛者の道徳的事件であるバレエ・ローズ事件に関与していた3。捜査の結果、警察官を装った元 DST 運転手ピエール・ソルリュ (彼は待機中だった) が、未成年の少女たちを警察によって 3 年間監禁していたことが判明した。彼らの関係のおかげで、芸術的なキャリアを促進すると約束した男性に会う機会を彼らに提供しました。彼らはアルコールとマリファナを用意してアマチュアの聴衆に官能的なショーを披露したが、振り付けのいくつか4は、画家となりルーマニアの伯爵夫人のふりをした「ピナジェフ伯爵夫人」として知られるエリザベート・ピナジェフが考えたものであった1。彼女はこの事件で有罪判決を受けた。

(後略)

トロケールの愛人だったことよりも、もっと興味深いことは、彼女が亡命ロシア人だったことと(ただし、偽の経歴の可能性もあると思う)、彼女の主役の映画を撮ったカール・テオドール・ドライヤー監督ということ。

カール・テオドール・ドライヤーは、

欧州映画界とブルジョア-12(米国とフランスのファッション&映画業界を結んだ立役者) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書いた二コラ・ド・ギュンツブルクと映画『ドラキュラ』(1932年)を共同制作し、その映画に彼を出演させている人物です。

Carl Theodor Dreyer — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋Google翻訳:

1928 年にトーキング映画が登場しても、当時多くの無声映画監督が考えていたように、ドライヤーは映画が消滅するだろうとは言わなかった。しかし、彼は最初のサウンド映画が劇場でのみ撮影されたことを後悔しており、サウンドは映画から何も失わず、その示唆力を高めることを『Vampyr』(1932)で証明する機会があった。この素晴らしい映画は、ジュリアン・ウェストというペンネームで主役を演じたニコラ・デ・ギュンツブルク男爵の依頼で制作されました。シェリダン・レ・ファニュの2つの短編小説にインスピレーションを得たこの作品は、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)とトッド・ブラウニングの『ドラキュラ』(1931年)に続く、吸血鬼神話の成功に貢献した

デンマークの映画監督カール・テオドール・ドライヤーはパリでギュンツブルクと出会い、表現主義ホラー映画『ヴァンパイア』(1932年)の共同制作に至った。ジョセフ・シェリダン・ル・ファニュの『In a Glass Darkly』にまとめられた吸血鬼物語を大まかに基にしたこの作品では、主人公のアラン・グレイをギュンツブルクがジュリアン・ウェストというスクリーンネームで演じた。

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欧州映画界とブルジョア-21(1959年ピンク・バレエ事件)

2024年09月19日 | 欧州映画界ネットワーク

欧州映画界とブルジョア-20(フランソワーズ・サガンと映画界) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中で紹介した記事の中に、

The novel was published on March 15, 1954, she was 18 years old. She received the Prix des Critiques on May 24, awarded by a prestigious jury. On June 1, François Mauriac wrote on the front page of Le Figaro: "this Critics' Prize awarded to a charming little eighteen-year-old monster whose literary merit is evident from the first page and is not debatable. However, the novel causes a scandal in the France of René Coty...

(Google翻訳:

小説は 1954 年 3 月 15 日に出版され、彼女は 18 歳でした。彼女は 5 月 24 日に権威ある審査員から批評家賞を受賞しました。 6 月 1 日、フランソワ・モーリアックはフィガロ紙の第一面に次のように書きました。「この批評家賞は、最初のページから文学的価値が明らかで、議論の余地のない、魅力的な 18 歳の少女に授与されました。しかし、この小説はフランスでルネ・コティのスキャンダルを引き起こしました...)

という部分があったので、このスキャンダルとは何かを探ってみましたが、1954年の「悲しみよこんにちは、ルネ・コティ、スキャンダル」「フランソワーズ・サガン、ルネ・コティ」等で検索してみましたが、スキャンダルと呼べると思うものは見つかりませんでした。

しかし、なぜかこの検索で見つかったのが、「ピンク・バレエ事件」という、1959年の事件です。

映画女優もかかわっているし、集めた少女たちも女優になることを餌に集められたのでしょう。

 

Affaire des Ballets roses (France) — Wikipédia (wikipedia.org)

Google翻訳:

いわゆる「ピンク バレエ」事件は、1959 年にフランスで大きく報道された未成年者に対する性的暴行事件です。

啓示

この事件は、1959 年 1 月 10 日付けの日刊紙ル・モンドに、未成年者横領の容疑で告発されたいわゆる警察官の数週間前に逮捕状が出たことを知らせる簡単な内容が掲載されたことから始まりました 2。

1月23日、政治週刊誌『オー・リッスン・デュ・モンド』は、「バタールの小さな愚行」と題した記事で情報を拡大した。警察官は、パリ地方のさまざまな場所で人物と未成年者とのゲームを組織したことを認めたとされる。バタールパビリオン。しかし、パリのすぐ近く、フォーセ・休息の森の中にあるこの狩猟小屋は、その後、国会議長のアンドレ・ル・トロケール3に利用できるようになりました。

『Sexus Politicus』(2006 年)の中で、ジャーナリストのクリストフ・デロワールとクリストフ・デュボアは次のように書いています。

「73歳になったル・トロケーㇽは、画家の愛人とバッカナールに参加したが、特に14歳から20歳の思春期の少女たちとのパーティーに参加していた。リージェンシーの自由なディナーのような集団的な祝祭のプログラムでは、ストリップショー、裸のポーズ、鞭打ちで装飾された感覚の喜び、官能的な振り付けが行われます。祝賀行事は愛人の工房だけでなく、パレ・ブルボン宮殿、オペラ座、議会議長の別邸であるバタール・パビリオンでも行われた。

こうした自由な夜、ル・トロケールは、5人の未成年者を含む若い女性たちの前で、昔の自分を輝かせた。これら5人のうち4人は青年[ピエール・ソルリュ]によって連れてこられたものだった。ル・トロケールはこの青年について、行儀が良く、良家の出身のようで、友好的な少年だったと述べている4。 

 政治家のアンドレ・ル・トロケール氏が週刊誌の責任者に宛てて「公表された疑惑を、遠慮のない断固とした絶対的な否定3」に反対するよう公に宛てた書簡は、このニュース項目に新たな側面を与えた。 実際、アンドレ・ル・トロケール氏(74歳)は政治界の著名人だった。 1914 年の戦争で切断され、片腕を失った彼は、特に次のような特徴を備えていました。

1936 年から 1942 年と 1946 年から 1958 年までセーヌ県の SFIO 代理。 リオム裁判中のレオン・ブルムの弁護士。 ド・ゴール将軍に近いレジスタンス戦士であり、ド・ゴール将軍のために解放大臣を務めた。 第四共和政最後の国民議会議長(1956年1月から1958年6月まで)2. 彼は十数人の高齢者や裕福な男性とともにすぐに起訴された。

(中略)

捜査の結果、元DST運転手ピエール・ソルリュットが警察官を装って(待機中だった)、3年間にわたり若い少女たちを監禁していたことが判明した(同紙によれば、最年少は14歳、最年長は20歳だったはずだ)。一部の情報源3、12、18年、他の情報12、13によれば、当時市民的多数派は21歳、性的多数派は15歳であった)、関係のおかげで芸術を促進することを約束した男性と会うことを申し出ることによってキャリア。彼らはアルコールとマリファナを用意してアマチュアの聴衆を前に官能的なショーを披露したが、その振り付けの一部は「ピナジェフ伯爵夫人」として知られるルーマニアの画家で偽伯爵夫人であり、元女優で当時交際していたエリザベート・ピナジェフが考案したものだった。

アンドレ・ル・トロケール(そのため「ピンク・バレエ」という名前)の。娘のキャリアを促進することを確信し、同意した母親もいたでしょう2。 裁判と有罪判決 裁判の終わり、1960年6月9日付の判決により、23人の被告のうち22人が有罪判決を受けた。主催者のピエール・ソルリュ氏は懲役5年を言い渡されたが、控訴審では懲役4年に減刑された。他にも罰金だけでなく懲役刑も言い渡され、特にパリの美容師アルトゥーロ・グリエルミ(控訴院では執行猶予18ヶ月、罰金6,000フラン)、レストラン経営者のジョルジュ・ビアンシェリ(控訴院では懲役18ヶ月)が言い渡された。ジャン・ジェシエ(控訴裁判所によると、執行猶予付き懲役18ヶ月、罰金3,000フラン14)と、衣料品店の取締役セールスマンであるジャン・ジェシエ(控訴院によると、執行猶予付き懲役18ヶ月、罰金3,000フラン14)。

アンドレ・ル・トロケールに関しては、法廷は、彼を汚すことを目的とした政治的陰謀を口実にしたことや、共和国の宮殿でこれらの立派なパーティーを歓迎したことのいずれについても、彼に対して不起訴とした。彼は「老人を圧倒する」ことを望まなかったので、執行猶予付きの懲役1年と罰金3,000フランを言い渡した3。これらの有罪判決と判決は、1961 年 3 月にパリ控訴院第 10 室によって確認されました。 これらのピンクバレエの主催者であるピエール・ソルリュは、釈放後、妻のスザンヌ(獄中結婚)とともに、パリの殉教者通り97番地にレストラン「レ・コルヌアイユ」をオープンした。1965 年、彼のレストランは強盗に遭い、「黒いジャケットに略奪された」15。

この事件をめぐっては、著名人の振り付けへの積極的な参加から、ブルボン宮殿で開催されたサドマゾヒスティックな乱交パーティーまで、さまざまな噂が飛び交った。今日でも、少年に関して「ピンクのバレエ」およびそれに相当する「ブルーのバレエ」という表現は、(用語の常識的な意味での)強姦を伴う可能性のあるさらに犯罪的な行為を指すのが一般的です。その一方で、ピエール・ソルリュがDSTで正式に働いていた年に、その局長であるガウリストのロジャー・ワイボットの運転手を務めていたという事実は、社会主義者のル・バーターを破壊することを意図した陰謀の理論を加速させた。 その影響は、政治レベルであれ、アルジェリア戦争であれ、法律レベルであれ、ラカーズ事件であれ、忙しい時事問題によって弱められた。

(後略)

 

参考:

André Le Troquer - Wikipedia

Elisabeth Pinajeff - Wikipedia

ルネ・コティ - Wikipedia

Direction de la Surveillance du territoire — Wikipédia (wikipedia.org)

Roger Wybot — Wikipédia (wikipedia.org)

(続く)

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欧州映画界とブルジョア-20(フランソワーズ・サガンと映画界)

2024年09月17日 | 欧州映画界ネットワーク
から:

 
ジーン・セバーグが主人公を務めた『悲しみよこんにちは』
 
この映画は、フランソワーズ・サガンが18歳の時書いた小説の映画化で、サガンはその後何作か書き、『ある微笑み』『ブラームスはお好き(映画邦題は『さよならをもう一度』)』等、映画化されていきます。
 
若いサガンが18歳の少女が主人公の本『悲しみよこんにちわ』『ある微笑み』を書くことはさほど不思議ではなかったのですが、3作目の『ブラームスはお好き』は主人公がアラフォー。サガンが23歳でこのアラフォーの主人公と同世代の愛人をも書いたリしているので、私は「サガンは本当にこれらの本を皆書いているのだろうか?」とずっと半信半疑でした。

(フランスに興味がある私はサガンの本は多分、7冊くらい持っていたと思います。でも、面白く読めたのは、『ある微笑み』と『ブラームスはお好き』。映画で観たことがあるのは、『悲しみよこんにちわ』のみ。)
 
先日、マダム・クロードのことを調べているときに、
政府や王族がりようする高級売春組織の手伝いを、サガンの実の弟や、元夫がしていたかも、という記事を見つけました。
 
「価格が高騰するにつれ、マダム・クロードの名声も高まった。彼女は親友で、文学の女王フランソワーズ・サガンの弟で脚本家のジャ​​ック・クワレとカクテルパーティに現れることもあった。クワレはクロードの主要な「試食者」、つまりミシュランの性的な検査官のように彼女の新しい女性を試し、格付けする非の打ちどころのない趣味の持ち主でもあった。もう一人の「試食者」は、サガンの夫のひとりで高尚な編集者ギー・ショレールだと広く考えられていた。」
 
その時から、「少なくともサガンは映画業界にコネがあるのではないか?」と思っていたので、今日改めて調べてみると、こんなことがわかりました。
 
 
抜粋Google翻訳:
 
彼女がこの最初の小説を書き始めたのは大学 1 年生のときでした。試験に落ちた後、1953 年の夏、パリで本を書き上げました。友人のフロランス・マルロー (アンドレ・マルローの娘) が、その原稿を母親に提出し、母親はそれを出版社に送りましたが、それは失敗でした。 フランソワーズの文学の先生は、小説の結末を書き直すよう提案し、3 つの出版社を推薦しました。フランソワーズはその後、より悲劇的な結末を考え、原稿を 3 部きちんとタイプしました。1954 年 1 月 17 日、ジュリアードは同意しました。 父親は表紙に彼女の名前を載せることを望まなかったため、彼女はプルーストの登場人物にちなんでフランソワーズ・サガンと名乗りました。 小説は 1954 年 3 月 15 日に出版され、彼女は 18 歳でした。彼女は 5 月 24 日に権威ある審査員から批評家賞を受賞しました。 6 月 1 日、フランソワ・モーリアックはフィガロ紙の第一面に次のように書きました。「この批評家賞は、最初のページから文学的価値が明らかで、議論の余地のない、魅力的な 18 歳の少女に授与されました。しかし、この小説はフランスでルネ・コティのスキャンダルを引き起こしました...
 

文学界で成功を収めた後、フランソワーズはジャーナリズムの道へ進みました。雑誌「エル」の編集長エレーヌ・ゴードン=ラザレフは、1954 年に彼女にイタリアに関する一連の記事を依頼しました。彼女は半島の北から南まで記者役を演じ、その文章は「こんにちは、ナポリ」、「こんにちは、カプリ」、「こんにちは、ベニス」などと題されていました。これらの軽妙な文章では、各都市が女性に例えられ、この「こんにちは」が彼女のトレードマークとなりました。

 

サガンがアンドレ・マルローの娘の友人で、その母親に最初に『悲しみよこんにちは』を見てもらった話は有名ですが、エレーヌ・ラザレフと繋がっていたという・・。

欧州映画界とブルジョア-3(ELLEの創刊者夫妻~『シェルブールの雨傘』) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

フランソワーズ・サガン - Wikipedia

Françoise Sagan - Wikipedia

ブラームスはお好き - Wikipedia

さよならをもう一度 (映画) - Wikipedia

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欧州映画界とブルジョア-19(ジェローム・ヘルマンとジーン・セバーグ、ジェーン・フォンダ)

2024年09月17日 | 異文化

欧州映画界とブルジョア-18(ピーター・セラーズとジェローム・ヘルマン、米国~英国~) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の末尾に、

「ヘルマンのプロデュースした作品には、ユダヤ系の俳優など映画人のほか、音楽のジョン・バリー、ジェーン・フォンダ、ジーン・セバーグなど、フランス映画界に関係する人たちがいます。」

と書きましたが、

ヘルマンの制作最初のピーター・セラーズの映画以降2本目、

素晴らしき男 - Wikipedia

ジェームズ・ボンド役のショーン・コネリー(Sir 卿)、ポール・ニューマンの妻のジョアン・ウッドワード、そして、フランス映画『悲しみよこんにちは』『勝手にしやがれ』に出演したジーン・セバーグが出演。

3本目

真夜中のカーボーイ - Wikipedia

監督はイギリスのユダヤ系監督のジョン・シュレシンジャー、出演はアンジェリーナ・ジョリーの父親のジョン・ボイド、やはりユダヤ系のダスティン・ホフマン。音楽が、ジェームズ・ボンドの映画シリーズや、ヘルマン政策の映画の音楽担当することがあったジョン・バリー。

ジョン・バリー氏が直接フランス映画・エンターテイメントと関係したというわけではないのですが、ジョン・バリーの2度目の妻が、フランス人のセルジュ・ゲンズブール。

帰郷 (1978年の映画) - Wikipedia

こちらはジェーン・フォンダとジョン・ボイドが主演の反戦、フェミニズムを訴える映画。

ジェーン・フォンダは、1965年~73年までフランス映画監督のロジェ・バディムと結婚をしています。

 

どのみち、ジェローム・ヘルマンがプロデュースした映画はリベラル色が強い映画で、さらに言えば、ジーン・セバーグとジェーン・フォンダは政治色が強い女優でした。ジーン・セバーグは1978年に40歳で死亡。自殺とされているけど、他殺の可能性もあるのではないかと個人的には思います。

ジェーン・フォンダ - Wikipedia

ジーン・セバーグ - Wikipedia

 

ついでに-こちらはユダヤ系の米国中心の映画俳優。

Jewish Actors (imdb.com)

Jewish actresses (imdb.com)

 

ユダヤ教改宗者のエリザベス・テイラーも入っていれば、おそらく、ユダヤ教徒でなく、ユダヤ系の親族がいるだろうマリリン・モンローも入っています。1970年代の『大草原の小さな家』のマイケル・ランドンも、メリッサ・ギルバートもユダヤ系。『スターウォーズ』のハリソン・フォードもキャリー・フィッシャーもユダヤ系

何度も言うように、ユダヤ教信者ではないけど、ユダヤ系の親族がいる欧米人はさかのぼればたくさんいるはずですが、「ユダヤ人」のイメージがダメージに繋がる間は、あえてユダヤ系という映画人は少ないでしょう。

「危ないユダヤ系」は少ないはずなんですけど、映画界は危険なユダヤ人ネットワークも絡んでいることがあるようで、若死、変死する人が少なくない気がします。

(ジェローム・ヘルマンが「危ないネットワーク」に入っているという意味ではありません。)

 

 

参考:

ジェーン・バーキンの訃報・「保護される「LGBTQ権利」」とセルジュ・ゲンズブール - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランス映画『ミナ』とユダヤ人-3(セルジュ・ゲンズブール) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

欧州映画界とブルジョア-8(アヌーク・エーメとロジェ・ヴァディムとベルギー繋がり) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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欧州映画界とブルジョア-18(ピーター・セラーズとジェローム・ヘルマン、米国~英国~)

2024年09月16日 | 欧州映画界ネットワーク

欧州映画界とブルジョア-17(『タクシー・ドライバー』のローティン娼婦役から国際女優となったジュディ・フォスター)) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

アーサー・ジェイコブズが合併して『真夜中のカーボーイ』を無償提供したのが、ジェローム・ヘルマン。

真夜中のカーボーイ - Wikipedia

Jerome Hellman - Wikipedia

Google翻訳:

ジェローム・ヘルマン(1928年9月4日 - 2021年5月26日)は、アメリカの映画プロデューサー。1969年の『真夜中のカーボーイ』で第42回アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したことで最もよく知られている。[1] 1978年の映画『帰郷』も同賞にノミネートされた。

生涯とキャリア

ヘルマンはニューヨーク市のユダヤ人家庭に生まれた[2]。アシュリー/シュタイナー・エージェンシーでタレントエージェントとしてキャリアをスタートし、すぐに独立してジェローム・ヘルマン・アソシエイツを設立。この事務所は、生放送テレビの「黄金時代」に活躍した監督、脚本家、プロデューサーの代理を務めた。

ヘルマンが初めてプロデューサーの仕事をしたのは、ジョージ・ロイ・ヒル、フランクリン・シャフナー、フィールダー・クックのパートナーシップであるユニット・フォー・プロダクションズの末期、クライアントである社長兼プロデューサーのワージントン・C・マイナーからエグゼクティブ・プロデューサーの役職を引き継いだときでした。

(中略)

 1959 年、ヘルマンはタレント エージェンシーを解散し、映画のプロデュースに専念しました。彼はジョージ・ロイ・ヒルとパートナーを組み、ジョージ・ロイ・ヒルが監督し、ピーター・セラーズ (アメリカで制作した最初の映画)、アンジェラ・ランズベリー、トム・ボズレーが主演した最初の映画「ヘンリー・オリエントの世界」(1964 年) をプロデュースしました。

その後25年間で、彼はさらに6本の長編映画をプロデュースした。ショーン・コネリー、ジョアン・ウッドワード、ジーン・セバーグ主演の『素晴らしき男』(1966年)、ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト主演の『真夜中のカーボーイ』(1969年)、ドナルド・サザーランド、カレン・ブラック、バージェス・メレディス、ウィリアム・アザートン主演の『イナゴの日』(1975年)、ジェーン・フォンダ、ジョン・ヴォイト、ブルース・ダーン主演の『帰郷』(1978年)、同じくヘルマン監督の『暗闇の約束』(1979年[3]、マーシャ・メイソン、ネッド・ビーティ主演)、『モスキート・コースト』(1986年)である。

(後略)

ジェイコブズ同様に、ヘルマンはユダヤ人でした。映画界はユダヤ系が多く、国の内外に当然ネットワークができていると思います。

特に、ジョージ・ロイヒル初の監督映画で、イギリスの大物俳優のユダヤ系ピーター・セラーズの初の米国映画をプロデュースしたことはヘルマンにとっては力になったでしょう。

Peter Sellers - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ピーター・セラーズ CBE (本名リチャード・ヘンリー・セラーズ、1925 年 9 月 8 日 - 1980 年 7 月 24 日) は、イギリスの俳優、コメディアンでした。彼は BBC ラジオのコメディ シリーズ「ザ・グーン・ショー」で最初に有名になりました。セラーズは数多くのヒット コミック ソングに出演し、ピンク パンサー シリーズのクルーゾー警部役など、多くの映画での役柄を通じて世界中の観客に知られるようになりました。

(中略)

セラーズは1925年9月8日、ポーツマス郊外のサウスシーで生まれた。両親はヨークシャー生まれのウィリアム・「ビル」・セラーズとアグネス・ドリーン・「ペグ」(旧姓マークス)である。2人ともバラエティタレントで、ペグはレイ・シスターズの一座に所属していた。[3]

(中略)

1935年、セラーズ一家は北ロンドンに移り、マスウェル・ヒルに定住した。[12]ビル・セラーズはプロテスタントでペグはユダヤ人だったが、セラーズはハイゲートにある近くのカトリックの学校、聖母慈悲の兄弟会が運営するセント・アロイシアス・カレッジに通っていた。[3] 家族は裕福ではなかったが、ペグは息子に高額な私立学校に通わせることを主張した。[13]

伝記作家ピーター・エバンズによると、セラーズは幼い頃から宗教、特にカトリックに魅了され、困惑し、心配していた。[14] ロジャー・ルイスは、カトリック学校に入学して間もなく、セラーズは「自分がユダヤ人であること、つまり信仰の神秘の外側にいる人間であることに気づいた」と信じていた。[15]セラーズは後年、父親の信仰は英国国教会に準じているが、母親はユダヤ教徒であり、「ユダヤ人は母親の信仰を継ぐ」と述べている[15]。

ミリガンによると、セラーズはユダヤ人であることに罪悪感を抱いており、クリスマスにシナゴーグの燭台をプレゼントした際に、それが反ユダヤ的な侮辱だと信じて涙を流したことがあったと回想している[14]。セラーズは学校でトップの成績を収め、特に絵が得意だった。怠け癖があったが、生まれ持った才能のおかげで教師からの批判を免れた[16]。ある教師が他の少年たちが勉強をしていないと叱責し、「ユダヤ人の少年は君たちより教理問答をよく知っている!」と言ったことをセラーズは回想している[17][a]。


ヘルマンのプロデュースした作品には、ユダヤ系の俳優など映画人のほか、音楽のジョン・バリー、ジェーン・フォンダ、ジーン・セバーグなど、フランス映画界に関係する人たちがいます。

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欧州映画界とブルジョア-17(『タクシー・ドライバー』のローティン娼婦役から国際女優となったジュディ・フォスター))

2024年09月16日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

前回のブログ記事

欧州映画界とブルジョア-16(『プリティ・ベビー』(監督ルイ・マル)と『ダウンタウン物語』(監督アラン・パーカー)) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の終わりに書いた『ダウンタウン物語』に出演したジュディ・フォスターは、私が初めて知ったのはロバート・デ・ニーロ主演の『タクシー・ドライバー』からです。

この映画は私が中学か高校のころ、(中学の頃の)友人たちと『アメリカン・グラフィティ』目当てに名画座に行ったときにセットで上映していたもので、ロバート・デ・ニーロと合わせて初めて知りました。

友人ともども、『タクシー・ドライバー』の記憶と言えば、最後にデ・ニーロがモヒカン刈りにするところくらいで、まったく良さがわからないばかりか、ジョディ・フォスターもほとんど記憶には残りませんでした。

しかし、この映画はデ・ニーロだけでなく、ジョディ・フォスターも有名にし彼女は国際映画にも出演する下地を作ったと思います。

Jodie Foster - Wikipedia

(前略)

アリシア・クリスチャン・フォスター[3][4]は、1962年11月19日、カリフォルニア州ロサンゼルスで、エヴリン・エラ「ブランディ」(旧姓アーモンド、1928年 - 2019年)[5]と裕福な実業家ルシウス・フィッシャー・フォスター3世[6]の末っ子として生まれました。彼女はドイツ、[7]アイルランド、イギリスの血を引いています。[8]父方の祖先は、1620年にメイフラワー号で北米に到着したジョン・オールデンです。[6][9] 両親の結婚は彼女が生まれる前に終わり、彼女は父親との関係を築くことはありませんでした。[6][10][11]彼女には、ルシンダ、コンスタンス(「コニー」)、ルシウス(「バディ」)の3人の兄妹と、父親の以前の結婚で生まれた3人の異母兄弟がいます。[9]

離婚後、ブランディはロサンゼルスで女性のパートナーと子供たちを育てた。[6][12] 彼女は映画プロデューサーのアーサー・P・ジェイコブスの広報担当として働き、その後バディとジョディの俳優としてのキャリアのマネージメントに専念した。[6][9][10] フォスターの正式な名前はアリシアだったが、彼女の兄弟が彼女を「ジョディ」と呼ぶようになり、その名前が定着した。[4] フォスターは3歳で読み書きを覚えた天才児だった。[6][10]

彼女はフランス語の予備校であるリセ・フランセ・ド・ロサンゼルスに通った。[10] 彼女はフランス語が堪能だったため、フランス映画に出演することができた。彼女はまた、英語で出演した映画のほとんどでフランス語版の吹き替えを担当している。[6][13] 1980年の卒業式では、学校のフランス語部門の卒業生代表としてスピーチを行った。[10]

(中略)

1970年代:

タクシードライバーと10代のスターダム フォスターの母親は、娘が子どもの役を演じるのをやめる頃にはキャリアが終わってしまうのではないかと心配し、フォスターに大人向けの映画にも出演するよう勧めた。[25] アリスでの脇役の後、スコセッシは彼女をタクシードライバー(1976年)の児童売春婦役に起用した。[26] この映画に出演するために、フォスターは精神鑑定を受けなければならず、撮影現場にはソーシャルワーカーが同行した。[27][28][29] 姉のコニーは性的に挑発的なシーンで彼女の代役を務めた。[28][30]フォスターは後にこの役について、「子供が女優になるならシャーリー・テンプルか誰かの妹を演じなければならないとみんなが考えるという考えが嫌い」だとコメントした。[31] 撮影中、フォスターは共演者のロバート・デ・ニーロと絆を深めた。デ・ニーロはフォスターに「大きな可能性」を見出し、一緒にシーンのリハーサルに時間を割いた。[32] フォスターは『タクシードライバー』を人生を変える経験と呼び、「初めて自分ではないキャラクターを作るように頼まれた。演技はただやるだけの趣味ではなく、実際に技術が必要だと初めて気づいた」と語った。[10]

『タクシードライバー』はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞。フォスターは記者会見でフランス語の通訳を務め、記者たちに感銘を与えた。[27][33] 『タクシードライバー』は批評的にも商業的にも成功し、彼女は助演女優賞にアカデミー賞ノミネートされ、2つのBAFTA賞、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞、全米映画批評家協会賞を獲得した。[10][27] この映画は、アメリカ映画協会[27]とSight & Sound[34]によって史上最高の作品の1つとされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存されている。[35] フォスターは、1976年にパルムドールにノミネートされた別の映画『バグジー・マローン』にも出演した。[36]

このイギリスのミュージカルは、禁酒法時代のギャング映画をパロディ化したもので、役柄はすべて子供に演じさせ、フォスターはスピークイージーショーのスターとして主要な脇役として出演した。[37]監督のアラン・パーカーは彼女に感銘を受け、「彼女は映画の作り方にとても知的関心を持っているので、もし私がバスにひかれたとしても、おそらく彼女だけが現場で監督を引き継げる人物だったと思う」と語った。[38] 彼女は演技に対していくつかの肯定的な評価を得た。シカゴ・サンタイムズのロジャー・エバートは「13歳にして、大人の女優たちが女性向けにはもう書かれていないと不満を漏らしていた役を彼女はすでに得ていた」と書き、[39] バラエティ誌は彼女を「傑出している」と呼び、[40] ニューヨーク・タイムズのヴィンセント・キャンビーは彼女を「ショーのスター」と呼んだ。[41]

フォスターはタクシードライバーとバグジー・マローンでの演技により、2つのBAFTAを共同受賞した。[42] 1976年の3作目の映画は、その2年前に撮影されたインディーズドラマ「エコーズ・オブ・ア・サマー」だった。[43] ニューヨーク・タイムズはフォスターの演技を「最も素晴らしい」と評価した。

(後略)


ジョディの母親が働いていたのは、良心的作品を作りをしてきたアーサー・ジャコブス。(ピーター・オトゥールの『チップス先生さようなら』は最高!)

Arthur P. Jacobs - Wikipedia

Google翻訳:

アーサー・P・ジェイコブス(1922年3月7日 - 1973年6月27日)は、アメリカの映画プロデューサー。プロデューサーになる前は、さまざまなスタジオで働き、広報担当者でもあった。1963年から亡くなるまで、自身の会社APJACプロダクションを通じて、『猿の惑星』シリーズ、『ドクター・ドリトル』、『さよなら、ミスター・チップス』、『プレイ・イット・アゲイン』、『サムとトム・ソーヤー』などの映画制作を担当した。 生い立ち アーサー・P・ジェイコブスは、ロサンゼルスのユダヤ人家庭[1]に生まれた。 1940年に父親を自動車事故で亡くし、1959年には母親を癌で亡くした。ジェイコブスは1942年に南カリフォルニア大学で映画を専攻した。1943年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーで配達員として働き始め、宣伝部に昇進した後、1946年に広報担当としてワーナー・ブラザーズに誘われた。1947年にワーナーを離れ、自分の広報事務所を開き、1956年にアーサー・P・ジェイコブス社を設立した。顧客にはグレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュワート、ジュディ・ガーランド、マリリン・モンローなどがいた。[2]

1963年、ジェイコブスは長編映画製作会社APJACプロダクションを設立し[2]、翌年、最初の映画『What a Way to Go!』を20世紀フォックスを通じて公開した。ジェイコブスはフォックスの契約スター、モンローが主演することに同意したおかげでプロジェクトの資金を確保できたが、1962年に彼女が亡くなったため、ジェイコブスは彼女をシャーリー・マクレーンに代えざるを得なかった。

(中略)

同年、ジェイコブスは女優のナタリー・トランディと結婚し、彼女は4本の続編すべてでさまざまな役を演じた[2]。 同時に、ジェイコブスのAPJACはジェローム・ヘルマン・プロダクションズと合併し、ジェイコブスの元雇用主であるMGMのためにミュージカル「グッバイ、ミスター・チップス」を制作した。[3] ドクター・ドリトルよりも制作費が安く手間もかからなかったにもかかわらず、これも興行収入ではほとんど注目されなかった。[4] トランディによると、ジェイコブスは「私は生涯、家族全員で観られない映画を作るつもりはない」と述べ、仲間のジェローム・ヘルマンに「真夜中のカウボーイ」の権利を無償で譲渡し、「自分の名前は載せない」と言った。[5] ヘルマンはその後、「真夜中のカウボーイ」で1969年のアカデミー作品賞を受賞した。 1973年、APJACプロダクションズはAPJACインターナショナルに改名された。ジェイコブスはリーダーズ・ダイジェストの資金援助を受けたミュージカル「トム・ソーヤー」を制作した。このミュージカルでは、脚本と音楽の両方をシャーマン兄弟が手がけた。これは、多作な作曲家たちと結んだ5本の映画契約の最初の作品となるはずだった。[6] しかし、1973年6月27日、2本目の映画『ハックルベリー・フィン』の制作中に、ジェイコブスは51歳で心臓発作で急死した。 

(後略)

ジェイコブズが譲渡した『真夜中のカーボーイ』は、ジョディ・フォスターが出る『タクシー・ドライバー』と感じが似ています。

 

参考:

タクシードライバー (1976年の映画) - Wikipedia

真夜中のカーボーイ - Wikipedia

アメリカン・グラフィティ - Wikipedia

チップス先生さようなら (1969年の映画) - Wikipedia

 

関連:

『フライト・プラン』は人種差別映画ではないのでは? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

(一か所「ジョディ」が「ジュディ」に誤記のままのところがありますが、2014年11月以前の記事は修正するとフォーマットが崩れるのでそのままにします。

この映画は、鋭いジョディらしいかも。)

 

オマケ:

Jodie Foster's father sentenced to five years behind bars - CBS News

Jodie Foster's estranged father was penniless when he died in a one bedroom apartment | Daily Mail Online

(Daily Mailの記事に『ダウンタウン物語』の映像があります。)

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欧州映画界とブルジョア-16(『プリティ・ベビー』(監督ルイ・マル)と『ダウンタウン物語』(監督アラン・パーカー))

2024年09月15日 | 芸術・本・映画・TV・音楽
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20世紀初めの亡命ロシア人-8(ロマノフ家の悲劇)

2024年09月14日 | 欧州映画界ネットワーク

フェリックス・ユスポフの妻の弟が、ナタリア・パレイの姉、イリナと結婚をしました。

Grand Duke Alexander Mikhailovich of Russia - Wikipedia

Irina Paley - Wikipedia

この二人から生まれたミハイルで、助監督として映画界に入りました。

Prince Michael Feodorovich of Russia - Wikipedia

Google翻訳:

ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ王子(フランス語:ミシェル・ロマノフ、1924年5月4日 - 2008年9月22日)はフランスの映画製作者。ロシア皇帝の子孫で、最後のロシア皇帝ニコライ2世の甥にあたる。

(中略)

ミハイル・フェオドロヴィチ王子はフランスではミシェル・ロマノフ・ド・ルシエ(フランスの身分証明書に記載された氏名)と呼ばれていました。パリとビアリッツで育ちました。子供の頃はフランス語、英語、ロシア語を話せるようになりました。晩年にはスペイン語とカタロニア語を学びました。[1]

1932年に両親が離婚した後、ミハイル・フェオドロヴィチ王子はヌイイの母親と暮らし、モンセル学校に通いました。第二次世界大戦の勃発後、家族はビアリッツに戻りました。1945年から1946年にかけてフランス歩兵隊に従軍し、ルクレール将軍の軍隊に同行してドイツに渡りました。[1]

経歴

しばらくの間、叔母のナタリア・パレイ王女と結婚していたルシアン・ルロンのソシエテ・デ・パルファンで働いていました。1949年、ミハイル・フェオドロヴィチ王子は映画業界に転身し、助監督として働き、後に製作ディレクターになりました。

彼は、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーなどと共演した。バート・ランカスター、トニー・カーティス、ジーナ・ロロブリジーダ、マーロン・ブランドなどは、彼の映画に出演した有名な俳優たちの一部である。

(中略)

 1985年に業界から引退した後、彼はビアリッツとヌイイの間で暮らして引退生活を送っていた。2度目の結婚の後、彼はコスタ・ブラバのレスカラに家を購入した。[1]

ミハイル・フョードロヴィッチ王子は、1979年にロマノフ家協会が設立されたときに加入した。[2] ミハイル・フョードロヴィチ公は1990年に初めてロシアを訪問した。1994年には、ロシア文化の促進に協力したことに対する見返りとしてサンクトペテルブルク当局から家を提供してもらおうと、出版記念会に出席するために再度ロシアを訪れた。家について尋ねられたとき、彼は「まず家、それからパスポートを要求します」と答えた。[3]

彼は1997年に、ロマノフ朝の写真展のオープニングに出席するために再度ロシアを訪問したが、この展覧会には従兄弟も何人か出席していた。ミハイル・フョードロヴィチ公は、遺骨が本物かどうか疑わしいとして、他の皇族と共に大叔父ニコライ2世の埋葬に出席することを拒否した。後に彼は、曽祖母であるマリア・フョードロヴナ皇太后の遺骨がサンクトペテルブルクに再埋葬されるのを阻止しようとしたが、失敗した。彼は「亡命中に亡くなった皇族は亡くなった場所に留まるべきだ」と考えていたからである[1]。

 

彼は、多くを語ったわけではないと思いますが、ロマノフ家の本当の意味での悲劇を感じていたことでしょう。

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20世紀初めの亡命ロシア人-7(ラスプーチン暗殺と役者)

2024年09月14日 | 欧州映画界ネットワーク

ラスプーチン殺害共謀者と言われる人物には、

20世紀初めの亡命ロシア人-1(ラスプーチン殺害の真実は?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

20世紀初めの亡命ロシア人-2(ユスポフ家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

20世紀初めの亡命ロシア人-6(ラスプーチン殺害の共謀者でナタリア・パレイの異父姉マリアンヌ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いた

フェリックス・ユスポフ、ドミトリー・パヴォロビッチ、マリアンヌ・ピストルクロス、それともう1人、ベラ・カラリという女優がいました。(彼女はバレエ・リュスのバレリーナでもあり。)

Vera Karalli - Wikipedia

Google翻訳:

ヴェラ・アレクセーエヴナ・カラリ(ロシア語:Вера Алексеевна Каралли、1889年7月27日 - 1972年11月16日)は、20世紀初頭のロシアのバレエダンサー、振付師、無声映画女優でした。[1]

初期の人生とキャリア

『クリザンテミー』(1914年)に出演したヴェラ・カラリ 1910年代のポストカード、ミハイル・モルドキンと モスクワ生まれのカラリは、1906年に著名なロシア人講師アレクサンドル・ゴルスキーの指導の下、モスクワ演劇学校を卒業しました。カラリは、1909年、1919年、1920年にセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュス・カンパニーで公演しました。[2] 2年後、彼女はボリショイ劇場のソリストとなり、1915年にはバレリーナになった。カラリはダンサーのミハイル・モルドキンと頻繁に共演した。[出典が必要]

1914年、カラリは俳優としても成功を収め、ロシアで最初に名声を得た映画女優の1人となった。彼女の最初の役は、1914年のピョートル・シャルディニン監督のドラマ「Ty pomnish' li?」 (英題: Do You Remember?) で、人気俳優のイヴァン・モズジュキンと共演した。1914年から1919年まで、ヴェラ・カラリは、レフ・トルストイの「戦争と平和」を1915年に翻案した「Voyna i mir」を含む、約16本のロシアの無声映画に出演した。

彼女の最後の映画出演は、1921年に公開されたドイツ映画『Die Rache einer Frau』(英語のタイトル:A Woman's Revenge)である。著名な映画監督エフゲニー・バウアーによって主演女優に選ばれることが多かったカラリは、1915年にバウアー監督が小説家イワン・ツルゲーネフの『死後』を映画化した作品での演技や、1917年のメロドラマ『瀕死の白鳥』でのギゼラ役で最もよく知られている。[要出典]

 

ラスプーチンの死 カラリはロシアのドミトリー・パブロヴィチ大公の愛人で、1916年12月のグリゴリー・ラスプーチン殺害の共謀者でもあったと伝えられている。彼女はラスプーチン殺害の夜、フェリックス・ユスポフの宮殿にいた2人の女性のうちの1人だったとされている。もう1人はマリアンヌ・ピストルコルスである。共謀者とされる男性は、この2人の女性を公に特定することはなかった。[3]

(後略)

 

マリアンヌとヴェラは女優で、フェリックスやドミトリーも、演劇方面にはコネがありました。

考えてみると、「ラスプーチン暗殺」といっても、何か脚本があって筋書きを作っていたように思えてしまうんです。

グリゴリー・ラスプーチン - Wikipedia

抜粋:

ユスポフの回顧録によると、彼は青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したという。しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげてしばらく経っても容体に変化がなく、ユスポフを驚愕させた[注 1]。ユスポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた(政治もしくは神秘主義について話し合っていたという)[142][143]。数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。ユスポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発発砲した。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ[144]。

しかし、死んだと思われたラスプーチンは起き上がり、「目を見開き、自らの危機を知った」という[145]。驚愕したユスポフは階段を駆け上がり中庭に逃れ、騒ぎを聞いて駆け付けたプリシケヴィチがラスプーチンに向け拳銃を4発発砲した。4発の内3発は外れたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、彼は雪の上に倒れた[146][147]。しかし、なおもラスプーチンは起き上がったため、神経質になったユスポフは靴でラスプーチンの右目を殴り[148]、その後、ラスプーチンは額を拳銃で撃たれた。

(中略)

12月19日早朝、橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体とコートが発見され、15分後に警察や政府関係者が到着した[161][162]。遺体の手足はロープで縛られていたが、手首のロープは川に捨てられた際に解け、両腕は死後硬直で伸び切っていた[163][164]。夕方には、ラスプーチンの遺体はチェスメ教会(英語版)に運ばれた。翌20日、司法大臣アレクサンドル・マカロフ(英語版)が捜査を妨害したとして罷免された。同日夕方にラスプーチンの検死が行われ、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられた(ただし、この報告書は消失したため、検証不可能である[165])[166]。

しばしば語られるラスプーチンの死因について、「肺に水が入っていたため死因は溺死であり、川に投げ込まれた時点で生きていた」、「自力で岸辺に辿り着き、十字を切ろうとして死んだ」というものがあるが、実際にはラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで、毒物は検出されなかった[167][168][169][170][171][172]。検死によると、遺体の傷の大半は死後に傷付けられたものであり、右目は殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けていた[173]。また、暗殺者たちに切り取られた「ラスプーチンの男根」とされる、13インチ(約33センチ)の巨大な男性器のアルコール漬標本が、サンクトペテルブルクの博物館に保存されている[174]。

そもそも、ラスプーチンのあの不気味な様相も、芝居臭くさえ感じます。

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