「王子を歩き回った(その4)」のつづきも、渋沢栄一さんの邸宅「曖依村荘(あいいそんそう)」跡をたどりましょう。
本館(日本館)が建っていた場所は、児童公園になっています。
場所柄、都電の車両や蒸気機関車が置かれているのは良いとしても、妙なものが点々と置かれていて、なんともシュール
例えば、電車の前に人魚姫がいたり、
カメ、ヒツジ、アシカ、そしてはちまきしたタコがいたり…。
蒸気機関車の前にある「ひっくり返ったサザエ」みたいなものは何なんでしょうか?
人魚姫(ヒトデを使って垢すり中?)は、近くで見ると、お化粧(?)が崩れていて、結構怖い…
置かれているモノといい、色遣いといい、配置といい、初めて遊びに来た子どもが、その夜に夢に見そうな公園です。
とかなんとか言いながら、私は都電のシンプル極まりない運転席や、
対称的に超複雑&アナログな蒸気機関車の運転席ににんまりしたのでありました。
先々週の土曜日の1回目の王子探訪(記事はこちら)では叶わなかった青淵文庫と晩香廬の内部の観覧は、先週日曜日のリターンマッチで叶えることができました
正直申し上げて、青淵文庫の方は、外側からだけでも8割方は楽しめる気がします。
美しいステンドグラスや、ぬもぉ~と足が埋まって、足首を捻挫するんじゃないかと気を使うような上質な段通の「踏みごたえ」は、なかなか体験できることではありませんが、外観と比べて内装は地味ともいえるものでした。
私は青淵文庫について、渋沢邸の迎賓館のようなものではないかというイメージを持っていたのですが、説明板によれば、1925(大正14)年に建てられたこの建物は、
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵したお祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
だそうで、図書館だったという次第。
さらに説明板には、
内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物模様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
とありますが、私の印象ではかなりシンプルで、華麗というよりも上質といった風情でした。
残念ながら青淵文庫の(晩香廬も)内部は撮影禁止ですので、私の写真コレクションは外観のみ。
テラスへの出入り口と窓は装飾タイルで縁取りされていますが、建物の内側は素っ気なく窓やドアが据えられているだけ。
渋沢史料館のロゴマーク(右に載せました)には、葉っぱがあしらわれていますが、これは、渋沢家の紋「丸に違い柏」(かわいらしい紋)にちなんだもの、というか、家紋をもじった青淵文庫の装飾タイルの意匠を用いたもの(のよう)です。
柏をモチーフにしたデザインは、この装飾タイルだけではなく、青淵文庫の内外装のあちこちで見ることができました。
家紋をそのまま使わないところが近代日本の立役者の邸宅らしくてよござんす
ところで、よく判らなかったのが、青淵文庫のテラスの手すりや、上に書いた高級段通にもあしらわれたこちらの意匠でした。
漢字の「素」のように見えますナ。
史料館の係員さん(学芸員さん?)に聞けば良かった…
と、もしかして、「青淵文庫」の「青」か?
うん、うん、きっとそうだ、、と、勝手に納得
一方、それこそ渋沢さんの迎賓館として使われたという晩香廬の内部は、外部の印象そのままのステキな佇まいでした。
大事なお客さんと落ち着いた会話をするにはうってつけのスペースだと思いました。
テーブルの左手前と右の窓の前に立っている柱状のものは、灰皿だとか。立派な木製の豪勢な灰皿です
灯具は、なんとなく私の実家の旧「徒然煙草の勉強部屋」に下がっているものと似たデザインですが、渋沢さんのが私の実家のように大量生産の工業製品を使うはずもなく、ツルをあしらった鋳物製のフレームを用いた一点もの
ちなみに、上の写真は渋沢史料館のリーフレットから拝借しました。
灯具といえば、こちらの外壁灯もかなりステキ
ここで、青淵文庫と晩香廬の内部を観たいという方に朗報です。
先々週は気づかなかったのですが、先週出かけた時に、こんなフライヤーを入手しました。
今は土曜日の12:30~15:45だけに行われている青淵文庫と晩香廬の内部公開が、今年4月1日から渋沢史料館の休館日を除く毎日12:30~15:45に拡大されます
ただし、
イベント開催などによりご覧いただけない場合があります。ホームページなどでご確認ください。
だそうです。ご注意くださいまし
旧澁澤庭園を散策していると、立派な燈籠を見つけました。
笠には、「この方を誰と心得る」でおなじみの三葉葵紋が鋳込まれていて、さぞかし由緒がありそうです。
しげしげと観察すると、以下の文言が読み取れました。
紀伊国主権中納言従三位源治貞
浚明院殿奠前
武州東叡山
ということは、第9代紀州藩主の徳川治貞公が、「浚明院」こと第10代将軍・徳川家治公の菩提を弔って、東叡山寛永寺に寄進した燈籠ですな。
家治公が亡くなったのが天明6(1786)年で、治貞公が亡くなったのが寛政元(1789)年ですから、つじつまが合います
それにしても、上野の山にあったはずの燈籠が、どんな経緯があって飛鳥山に移ってきたのでしょうか?
もっとも、飛鳥山は8代将軍・徳川吉宗公が整備させた行楽スポットだし、吉宗公は第5代紀州藩主であり、かつ、第9代紀州藩主・治貞公の父(第6代紀州藩主・宗直公)と従兄弟という関係だし、第10代将軍・家治公は吉宗公の孫と、縁が浅からぬ関係にはあります。
と、3日も記事を書かなかった(書けなかった)せいか、ずいぶん長い記事になってしまいましたので、ここで一旦切りましょう。
つづき:2012/03/14 王子を歩き回った(その6)
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