7月2日の記事「南九州旅行記(その7:熊本城の巻④)」のつづきです。
私は以前、お殿様たちはお城の天守閣で暮らしているものだと思っていました。
ところが、実際には天守閣ではなく、別に建てられた御殿で暮らしていたようで、細川の殿様は、「その4」で触れた花畑公園にあった御殿に住んで、熊本城に通勤されていたそうです。
そりゃそうですな。
基本的に天守閣の各階は狭いし、別の階に移動しようとすれば、現代の建築基準法からすればあり得ない急な階段を上り下りしなければなりません。
天守閣というものは「生活の場」ではなく、軍事的あるいは政治的な建築物だということでしょう。
そんなわけで(?)、熊本城本丸で城主の生活&政務の場となったのが、本丸御殿だったそうです。
1877年(明治10年)の謎の火災で焼失し、130年ぶりに再建・公開された本丸御殿は、まだまだ「新築」でした。
いやいや「新築」どころか、まだまだ未完成で、大広間なんて、
壁や襖が真っ白。
まさしく、「あなた色に染まります」って感じ…
そんな中、「往時はこうだったんだろうな…」と思わせたのは、若松之間と、
復元された本丸御殿の目玉、昭君之間でした。
伝説の美女「王昭君」の生涯を描いた障壁画で飾られた最高格式の部屋です。
天井もきれい
私のBlu-rayディスクコレクションの一つに、08年2月にNHKが放映した「ハイビジョン特集『蘇る桃山文化 熊本城本丸御殿復元』」があります(私のコレクションは再放送された時のもの)。
この番組によると、昭君之間の障壁画の復元だけで3年近くかかったのだそうです。
なにせ、焼失前のこの部屋の様子についての画像データがまったくなく、「王昭君が描かれていた」という文書と、絵師の画風や当時の図象の研究をもとに「想像復元」したのだとか。
計画されているのかどうか知りませんが、大広間の「白地」を桃山に染めるとすれば、どれだけの研究と製作期間が必要となるのでしょうか…
想像するだに恐ろしい…
ところで、「昭君之間」「王昭君」に使われている「昭」の字、現代の日本人にとっては、「『昭和』の『昭』」として馴染み深いものだと思います。
しかし、驚くことに、「昭」の字が一般的になったのは、大正の次の元号が昭和になってからのことのようです。
猪瀬直樹さんの名著(だと思う)、「天皇の影法師」にこんな記述が出てきます。
「(次の元号は)昭和というんです」
「なに?」
「昭和です」
「正直の正か? 平和の和か?」
「いや日へんにおめしの召しっていう字です」
「なに、そんな字があるのか」
板倉主筆はあわてて辞書を引き出した。
天皇の影法師 (日本の近代 猪瀬直樹著作集) 価格:¥ 1,260(税込) 発売日:2002-09 |
いろいろ横道に逸れながらも、次回はいよいよ天守閣デス
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