林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』によると、沖縄作戦で特攻基地を飛び立った者は、飛び立った日付で戦死公報が作成され、軍籍から抹消され、二階級特進の手続きを取っていた。
それなのに、敵艦に突っこんだはずの軍神が生きて帰ってきては、世間に説明がつかない。
軍司令部にしてみれば、いまさら生きて帰ってこられても扱いに困った。
出撃意欲をなくした特攻隊員の処置をどうするか、第六航空軍司令部は頭を痛めた。
生還した特攻隊員の扱いに苦慮した陸軍司令部は、福岡にあった第六航空軍指令部横に造った施設に収容し、一般人や他の特攻隊員に知られないように隔離した。
およそ80名ほどの特攻隊員が収容されていたといわれるその施設は、「振武寮」と呼ばれた。
行動は制限され、外出や外部との連絡(手紙・電話)は禁じられ、再び特攻隊員として出撃するための厳しい精神教育が施された。
倉澤参謀は毎朝6時半にやってくると、酒の匂いをぷんぷんさせながら「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない」とわめき散らして、竹刀で殴りつけた。
「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者、死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」
倉澤参謀は1944年9月に飛行機が墜落して頭蓋骨骨折をし、20日間も意識不明の重体になった。
命は助かったが、頭は割れるような痛みが走り、酒を飲んでは暴れた。
普通なら除隊するが、航士第五十期はほとんどが戦死していたため復帰した。
こういう人が参謀でいること自体がおかしいです。
林えいだい氏は倉澤清忠氏から次の言葉を引き出しています。
(少年飛行兵は)12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」
自爆テロとかいったことと通じる、重たい述懐です。
フィリピン特攻作戦以来、航空機による特攻の犠牲者はおよそ6千人といわれる。
目的を達することができずに引き返した隊員はほかにもかなりいるはずだ。
大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』によると、アメリカは日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きは米軍に掌握されていた。
日本軍がどこに、どれだけの数の戦闘機を保有しているか、正確に把握している。
特攻についても、攻撃の時間、規模、さらには機材が不足し、練習機が特攻に使われようとしていることまでが事前に調べつくされていた。
しかも、沖縄戦では、米軍は160km先の動体を確認できるレーダーによって、沖縄に防空警戒網を張り巡らせ、約30分前に特攻機の来襲を察知した。
沖縄作戦での特攻はほとんど無駄死というか、使い捨てにだったわけです。
戦争で多くの人が無駄に死んでいったことによって、日本人は平和主義を選んだことを肝に銘じておく必要があります。
大貫健一郎さんはこのように語っています。
いまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。