三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

永井哲『マンガの中の障害者たち』

2016年06月10日 | 

『マンガの中の障害者たち 表現と人権』の著者永井哲氏は小学校3年の時、耳が聞こえなくなります。
そのため、『マンガの中の障害者たち』で主に取り上げられているのは聴覚障害についてのマンガです。
マンガの中の差別的表現を指摘しているのかと思いましたが、それだけでなく、障害者がどういう状況に置かれているかとか、障害者が世間一般からどのように見られていたのかといった問題について書かれています。

就職ができない、障害者との恋愛に周りが反対するといった、差別や偏見。
たとえば、障害児の介護や教育が家族、特に母親だけの負担とされており、「こんな子を生んだのは、母親が悪い」と、家族の中でさえ、子どもも母親も否定されてしまうときもあるそうです。

まず、逮捕された仲間が警察にしゃべる前に声をつぶしてしまえば秘密は守られるという、1960年ごろに描かれたマンガがいくつか紹介されてます。
声が出なくても、筆談、あるいは手振り、身振りで相手に伝えることができます。
声の出ない障害者は周囲の人々とのやりとり話ができないという常識があったわけです。

次は読唇術。
唇の動きで話の内容を読み取ることができると思われていますが、どんなに読唇術のうまい人でも100%読み取るのは不可能。
一人一人のクセもあるし、動きが同じように見える単語が多いということもあって、実に難しいそうです。
しかしマンガの中では、どんなに不利な条件下でも、どんな難しい内容でも、すらすら読み取ってしまいます。

『マンガの中の障害者たち』が出版されたのは1997年、ろう学校では手話を否定する風潮がそのころにもあったそうです。
文部省がろう教育での手話の必要性を認めたのはその数年前で、口話(読唇術)、そして発声訓練に力を入れ、手話は禁止するというのがそれまでのろう教育でした。
今はどうなのでしょうか。

各都道府県にはろう学校が1つか2つあり、生徒たちは遠くから通うか、寄宿舎に入るしかない。
住んでいる地域の子ども集団から切り離されてしまい、聞こえる子は聞こえる子だけ、聞こえない子は聞こえない子だけで育っていくと、おたがいに対する理解がどうしても欠けてしまうことになる。

1996年、NHKの字幕放送は週に16時間58分、全放送時間の11.8%。
アメリカでは字幕放送番組などは全放送の70%。
阪神大震災の時、NHKは「地震関係のニュースだけでも字幕をつけてほしい」という訴えに対して、「今は健聴者にさえ十分情報を届けられない状況だから、まして、ろうあ者にまではとても無理……」と拒否したそうです。
崩れた家の下に閉じ込められていたろうあ者が3日後に救出だれたが、呼びかけもわからなかったそうで、その間の恐怖と不安はどれだけのものだったか。
こうしたこともどの程度改善されているのでしょうか。

吃音者をまじめに描こうとしたマンガには、必ずといっていいほど授業中の苦痛が出てくるそうです。
授業中、教師から指されたとき、教科書を読むとき、どうしてもどもりながらになる。
クラスメートの嘲笑、お荷物扱いされて教師から無視される。

普通校に通った永井哲氏自身もそうだったと書いています。
教師は教科書を読むよう指名するが、手間取ったり、進行が止まってしまうことがわかると、順番を飛ばすようになった。
永井哲氏は、次第に悔しさや恥ずかしさが薄れ、無視されたほうが楽とさえ思うようになったそうです。

以前は、障害児は「就学猶予・免除」ということで、「無理に学校に行かなくてもいい」という形になっていました。というよりも、学校へ行きたいという障害児を、学校側が「受け入れられない」と拒否するために「就学猶予・免除」というのはあったのです。


作者としては善意のつもりだろうども、無神経なマンガもあります。
あるマンガの主人公は、友だちが手話をしている人たちを見て、「オシの人ってなんとなくみじめに見えちゃうな」と言ったとき、「あの人たちだってなりたくてオシになったわけじゃないんだから」とたしなめます。

一見やさしそうですが、永井哲氏は、作者には「オシ=みじめ、劣ったもの、かわいそう」という思いがあるのではないか、だからこそ「オシのどこがみじめだと言うの?」「オシのどこが悪いの?」じゃなくて、「なりたくてなったわけじゃないんだから」という言葉にしかなっていないと指摘します。
自分自身の気づかない差別心ですね。

もう一つ、手塚治虫『どろろ』から、こういうエピソードを永井哲氏は紹介しています。
百鬼丸は、父親が生まれてくる自分の子どもの身体を48匹の妖怪に与える約束をしたために、目も耳も手も足も、身体の48か所の器官を持たずに生まれてきます。
妖怪を倒すと、奪われていた身体の部分を取り戻すことができます。

全盲の琵琶法師が百鬼丸にたずねます。

なあ 百鬼丸よ 人間のしあわせちゅうのは「いきがい」ってこった……
おめえさんが妖怪をたおす 手がはえ 足がはえ 目があいて いちにんまえの人間になれるときがくる……
それからあと おめえさんはどうする?
なにをもくひょうにくらす?


障害者から健全者になることが目的なのかと、永井哲氏は問うわけですが、この琵琶法師の問いは、さすが手塚治虫、深いです。


フィリップ・ドゥ・ショーヴロン『最高の花婿』は、ブルジョワ(かなりの豪邸)の4人の娘がユダヤ人、アラブ人、中国人と結婚し、期待した末娘はコートジボワール出身の男性と結婚するというお話です。
アフリカ系黒人が最悪だと見られているように感じました。


婿と舅、婿同士の差別的ジョークの数々に笑いながら、日本ではこういう題材を映画にするのは無理じゃないかと思います。
誰か『映画の中の差別』という本を書いてくれないものでしょうか。

(追記)
映画『聲の形』を見ました。
今年のキネ旬ベストテン候補です。
永井哲さんの感想を知りたいです。

コメント (15)
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