三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

長谷部恭男『憲法とは何か』(1)

2016年06月22日 | 

長谷部恭男『憲法とは何か』は、私の頭では理解できない個所が多々ありましたが、それでもなるほどなと教えられたことがいくつかあります。
たとえば立憲主義と価値観・世界観の多元性について。

立憲主義は近代以前と近代以後では定義が異なる。
近代以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とせず、人として正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。
正しい価値観・世界観が決まっている以上、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。

近代以降の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。

人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組を構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを実現することを目ざす。
そのための手立てとして、公と私の分離、硬性の憲法典、権力の分立、違憲審査、軍事力の限定など、さまざまな制度が用意される。

なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、価値観・世界観が一つで、何が真実で、何が正義かについて思い悩む必要のない世界を生きたくても、価値の多元化した近代世界はそうした生き方を許さないからである。

人々の価値観・世界観が、近代世界では、お互いに比較不能なほど異なっている。

異なる価値観・世界観を比較して優劣をつける共通の物差しは存在しないから、どちらがよりよい生き方かを比べる基準が欠けており、相互に比較できない。

たとえば自分の宗教は、自らの生きる意味、宇宙の存在する意味を与えてくれる、かけがえのないものである。

かけがえのないものを信奉する人々が対立すれば、人生の意味、宇宙の意味がかかっている以上、簡単に譲歩するわけにはいかず、深刻な争いとなる。

人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。

立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生まれた。

公と私の分離とは、多様な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分することである。

私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。
公的な領域では、考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。

戦前の日本では、公的領域と私的領域の切り分けは否定された。

すべての人のあらゆる活動領域は、天皇との近接関係によって位置づけられる。
この評価の尺度は、他の民族、国家にも押し及ぼされる。
すべての行動は天皇への奉仕として意味づけられ、説明される。
天皇自身も、皇祖皇宗という伝統的価値秩序から自由ではない。
自らが自由に選択し決断する領域は誰も持ち合わせておらず、したがって、自らの行動に責任をとる用意は誰一人としてない。

立憲主義は人間の本性に反している。

人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。
みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く分かりやすい世の中であれば、どんなにいいだろうと思いがちである。
誰が正義の味方で、誰が悪の手先か一目瞭然であってほしいと誰もが願っている。
そうした世の中では、一人一人が生き方を思い悩む必要もなく、正義や真実をめぐって深刻な選択に直面することもなく、後でその選択について責任を追及されることもない。
自分にとって大切な価値観・世界観であれば、自分や仲間だけではなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然である。

しかし、それを認めると血みどろの紛争を再現することになる。

社会全体の利益を考えるときには、自分が本当に大事だと思う価値観・世界観は一応括弧にくくって、他の価値観・世界観を抱く人にも分かるような議論をし、そうした人でも納得できるような結論にもっていくよう努力しなければならない。

公と私の分離は、人々に無理を強いる枠組みである。

この近代世界に生きることに嫌気がさして、憲法を変えると何とかなるのではないか、人々が一つの価値観・世界観にもとづいて生きる分かりやすい世界が実現できるのではないか、との夢を抱く人がいても不思議ではない。
その世界では、いかなる価値を選択するかを日々思い悩む必要もないはずである。

日本の「歴史、伝統、文化」とか、日本人としてのDNAとか言い出す人が出てくるのは、そういう意味で自然なことである。

憲法改正論議を瞥見すると、個々人の良心に任されるべき領域に入り込んで、人々の考えようやものの見方をコントロールしようと企てているのではないかと思われる議論が少なくない。
平たくいえば、お前たちの心の持ちようは利己主義的でなっていない、それをただして、魂を入れ換えてやるために憲法改正案を用意してやったから承認しろ、という話である。

『憲法とは何か』を読み、占領軍が押しつけた憲法ではなく、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだいてきた日本の歴史、伝統にもとづいた、新しい時代にふさわしい憲法の制定をめざすという、日本会議の主張はこういうことなのかと、すごく納得できました。


長谷部恭男氏は、価値観・世界観の多元化した社会で、政治を通じて特定の価値を押し広めようとすれば、自分たちの価値をフェアに扱っていないと、相手はますます反発するのが自然な反応であると指摘していますが、これまたもっともなことです。

(追記)
知人から
自民党の本音「国民主権、基本的人権、平和主義、この三つを無くさなければ、真の自主憲法にならない!」」というブログの記事を教えてもらいました。
私の娘は「ええ~、こわ~い」と言ってました。
創世日本(会長:安倍晋三)の東京研修会の様子を撮ったYoutubeです。
この人たちの考えは滅私奉公、富国強兵のようです。
だったら、自分が血を流せ、と思いますよね。



ちなみに「国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するって言ってるんですよ。この三つを無くさなければですね、ほんとの自主憲法にはならないんですよ」と語っているのは長勢甚遠元法務大臣で、ばっさばっさと死刑の執行をしています。
人権が嫌いだったんだなと思いました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 田口真義「死刑について何を... | トップ | 長谷部恭男『憲法とは何か』... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事