福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』に、死刑に関する審議型意識調査の結果が報告されています。
参加者に死刑に関する情報提供資料を前もって配布し、会場で丸1日かけて死刑制度について審議した。
審議は死刑制度に関する情報提供、グループ・ディスカッション(前半)、講演と質疑応答、グループ・ディスカッション(後半)で構成された。
審議前と審議後であまり変化があるようには思えず、参加者は死刑に対する態度決定に必要な知識が不足しているにもかかわらず、そのことに無自覚であることが多い。
たとえば、死刑制度に犯罪抑止力があるという仮説は、海外の研究を含めてこれまでに実証されていないことなどに対して、参加者はこうした情報に関する理解や受け入れの度合いが低かった。
坂上香『ライファーズ 罪に向きあう』からの孫引きですが、2011年、アメリカの無期刑囚は15万人強、仮釈放のない絶対終身刑は4万人強。仮釈放はほとんど認められない。
では、アメリカでは犯罪が増えているのかというと、そうではない。
1960~1990の犯罪率は、フィンランド、ドイツ、アメリカで大差ない。
しかし、フィンランドは30年間に受刑者数は60%減少、ドイツは横ばい。
それなのにアメリカは4倍に激増している。
アメリカの刑務所人口の増加が最も顕著だった1990年代、犯罪の発生率は25%も減少していた。
厳罰化と犯罪抑止は関係がないことは、たしかに理解してもらえません。
これは人間の特性でしょうね。
マーシャル仮説というのがあります。
死刑について知れば知るほど、①死刑を支持しなくなり、②死刑に反対する感情が生じる。
しかし、③応報的な理由から死刑に賛成する場合には、こうした傾向は見られない。
以前、裁判員と死刑についての集まりで、ある人が強盗殺人で起訴されたが、殺人と窃盗だと主張、一審は被告の主張が認められて懲役25年、二審では強盗殺人で無期懲役、上告はしなかった、という話をしたら、殺された人にとっては窃盗も強盗も同じだと言われ、反論できませんでした。
11月29日、泣き声がうるさいというので、生後16日の娘をごみ箱に閉じ込めて死なせたとして、両親が傷害致死容疑で逮捕されました。
傷害致死ですから、両親は死ぬとは思わずにゴミ箱に閉じ込めたということでしょうけど、殺された赤ん坊にとっては殺意があろうとなかろうと、たしかに同じです。
だけど、裁判員がそういうふうに考えてはまずいわけで、裁判員になったらという話し合いをしているのだから、強盗も窃盗もどっちもいっしょだと言うようでは裁判員失格だ、と反論すればよかったと反省。
マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』に、自分の赤ん坊2人を殺害した罪に問われた事件があり、同じ家庭内でふたりの子どもが乳幼児突然死症候群で死亡する確率は7300万分の1だと小児科が証言したとあります。
7300万分の1という数字がおかしいそうだが、それはともかく、赤ん坊が2人とも突然死することは珍しいが、子どもを2人殺すということも極めて稀である。
稀だからといって、殺した可能性が高いということにはならない。
そんなことをマイケル・サンデルは書いているわけですが、素人には判断できないと思います。
高山佳奈子氏は「死刑を科すという判断は、市民が自己の経験を基に行うことのできる性質のものではない」と書いていますが、そう思います。