三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

お金持ちはどれくらいお金持ちなのか

2015年12月26日 | 

山崎豊子『ぼんち』は船場の足袋問屋河内屋の跡取りが主人公で、女遊びが話の中心です。
船場の商人はしぶちんかと思ってたら、金遣いが荒いことに驚きます。

大正8年、22歳で結婚する。
披露宴での会席膳は20円、招待客は200人。
当時、大阪、新橋間の普通汽車賃は6円40銭。

大正10年に離婚。妻に当座の小遣いとして2,000円を渡す。
ちょっとええ月給で50円ですから、月給3年ちょっと分。

大正11年、祖母と母について芝居見物。

家から屋形船で芝居茶屋へ。昼の部が終わると、芝居茶屋へ帰り、祖母と母は着物を替える。夜の部が終わって、船に乗ると11時を過ぎている。
芝居見物にざっと500円ぐらい。
河内屋の1日の商い高が5,000円。

大正12年、父が死に、父が世話をしていた女に3,600円を渡す。

1000円あれば、家が1軒建つ。

大正14年、芸者(ぽん太)の面倒を見ることになり、自前披露をする。

ざっと見積もって1000円近くかかった。
花代1本16銭、昼夜花(午後6時から翌日の午前1時までの花代)は70本(ということは1時間が10本で1円60銭)で11円20銭。

大正15年、別の芸者(幾子)を落籍する。

引祝を地味にしたが、それでも3,000円の費用がかかった。

大正15年、ぽん太に男の子が生まれる。

妾腹ができたら、男の子なら5万円、女の子は1万円渡し、この金で子供との縁を切るのが船場の旦那のしきたり。

昭和2年、ぽん太の毎月のかかりは、月手当200円、衣裳料80円、指輪料50円、白粉代50円、計380円かかった。

野村徳七(野村財閥創始者)は祇園で舞妓を1000円で落籍している。

昭和2年、カフェーで一か月100円の名指し料があれば、そのカフェーのナンバーワンになれる。

世話をする女が4人になった。

昭和3年、お茶屋の支払いが一か月平均1000円。

このころ、十銭ストア、十銭寿司がはやる。

昭和9年、37歳、舞妓の水揚げ料が1000円。

2割がお茶屋の女将に、1割が姐芸者に、1割が女中、男衆への祝儀分。

昭和14年、240円の給料をもらっている中番頭が34,200円をかすめ取っていた。

手代の給料は55円。

小説だから大げさに書いているにしても、山崎豊子氏自身が船場の昆布屋の生まれなので、現実にこれくらいの金額を使っていたと思います。


では、現在ではいくらぐらいなのか。

物価指数からすると平成22年は大正14年の1400倍ぐらいだそうです。
東京~大阪のJR乗車券は8750円だから、6円40銭の1300倍ぐらい。
大正14年ごろの大卒初任給が50円で、現在が20万円とすると、4000倍。
披露宴の料理20円は、月給の半分弱だとすると10万円以上ですが、汽車の乗車賃と比較すると2万5千円ぐらいで、これだと驚くほどでもない。

もっとも、昭和10年代でも、中等学校に進めるのが約20%、高等教育(旧制高校・専門学校・大学予科・高等師範学校など)を受ける者が約5%、旧制高校・帝国大学は0.7%程度だと、高田里惠子『学歴・階級・軍隊』にありますから、大正時代の大卒初任給は現在の20万円程度ではないとすると、1円が1万円ぐらいになります。


『梨本宮伊都子妃の日記』は、鍋島直大の娘である梨本宮伊都子の日記と解説です。
鍋島家は佐賀藩主でしたが、こちらはもっとお金持ちです。


明治31年の高額所得者(石井寛治『日本経済史』)

1位 岩崎久弥                1,213,935円
2位 三井八郎右衛門           657,038円
3位 前田利嗣(加賀藩主)   266,442円
4位 住友吉左衛門       220,758円
5位  島津忠重(薩摩藩主)    217,504円
6位 安田善次郎        185,756円
15位 鍋島直大(佐賀藩主)  109,093円
(岩崎、三井、住友、安田は一族合計値)

明治33年、結婚する伊都子のために鍋島直大は宝冠・首飾り・腕輪・ブローチ・指輪など宝石一式をパリに注文したが、宝冠だけで2万数千円した。
鍋島直大は、明治20年が50,591円、明治28年90,266円の所得ですから、娘の結婚のために宝石一式を買ったのにもかかわらず、所得は増えています。
そのころの総理大臣の年俸は9,600円。

鍋島家は現在の永田町の首相官邸一帯にあり、2万坪近い敷地だった。

使用人は5~60人いた。

伊都子は結婚してから、月に50円の小遣いを親からもらっていた。

梨本宮家は宮内省からは生活費として年に45,000円をもらい、職員は表6人、裏5人、下女3人その他を使っても足りていた。

それでは、一般庶民の収入はどれくらいか。

小熊英二『日本という国』に、歴史学者の喜田貞吉(明治4年生まれ)が還暦記念に書いた本から、喜田貞吉の中学時代(明治20年ごろ?)には教師の給料がいくらだったかを紹介しています。
師範学校卒業生の初任給が6円、中等学校の先生が15円から30円、法学士が校長になると60円、高等師範学校出身の教頭は40円、県令は250円。
下宿屋の一か月の賄料が1円50銭だったことから、小熊英二氏は1円を現在の10万円に換算しています。
教師の初任給から考えると、1円=3~5万円ではないでしょうか。

『梨本宮伊都子妃の日記』ではいろんな数字を紹介しています。
横山源之助『日本之下層社会』によると、明治32年、日稼人足の1日の賃金は32、3銭で、年収はおよそ120円。


『女学世界 秋季増刊』明治37年9月に、明治37年、某伯爵家の年間予算総額は57,220円とある。

人力車夫は多いときで月に12円稼ぎ、車夫の長女の収入が1か月約3円60銭。
家賃や車の歯代などをひくと、一家5人が月8円か9円で生活する。
多くは月6円で生活していた。

ネットを調べると、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍くらいだが、物価に比べて賃金の水準が低く、1円=2万円の重みがあった、とあります。
日稼人足の年収は120円×2万で240万円、車夫の月収は8円×2万で16万円です。
物価に比べて人件費が安かったわけです。

となると、月50円の小遣いは現在の100万円ぐらいで、2万数千円の宝冠は5億円となります。

大正末では、給料水準から考え、1円は5000円から1万円ぐらいでしょうか。
となると、船場の主人が妾に男の子が生まれると払う5万円の手切れ金は梨本宮伊都子の宝冠なみの金額になります。
なんにせよ、金持ちと庶民、半端ではない格差ではあります。

コメント
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