三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

マーガレット・ハンフリーズ『からのゆりかご』

2013年03月23日 | 

ジム・ローチ『オレンジと太陽』は、児童養護施設の子供たちがオーストラリアに移住させられ、施設で過酷に扱われながら労働を強いられる、という児童移民という事実を暴いた映画である。
というので、原作のマーガレット・ハンフリーズ『からのゆりかご』(1994年刊)を読んだ。

マーガレット・ハンフリーズはソーシャルワーカーだが、1984年に養子になった人の自助グループを始めた。
1986年、子供の時にオーストラリアに送られたと訴える女性から相談を受けたことで、児童移民の問題に関わるようになる。

児童移民はなんと1618年が最初だそうだ。
「子供の移民は十七世紀以来周期的に行われてきた.最初に送られたのは1618年、ヴァージニアに入植する子供たち百人であった。大部分の子供は今日でいう浮浪児に該当するような子供たちだった。
この計画は十九世紀の終わり頃まではごく一般的なものであったのだが、不幸なことに詳細な参考資料はきわめて乏しい」

1900年から30年代にかけて、子供たちは主としてカナダへ、そしてローデシアやニュージーランドにも送られている。
第二次大戦後はオーストラリアに集中する。

児童福祉団体、慈善団体、教会、政府機関が児童移民に関わっていた。

いずれも善意でしたこと。

どうして子供たちを植民地に送り出したのか。

送り出すイギリスの言い分。
「英国及びアイルランドの子供たちが彼ら自身と帝国のために、困難な状況から「救出」されていたのである。
その論法はごく単純だった。貧困や非嫡出、崩壊家庭の犠牲者として、こうした子供たちは「恵まれない子供」とみなされ、社会に負担をかける者と考えられたのである。同様に彼らは長じては泥棒、フーリガンとなり、あげくの果てには監獄に入ることになるだろう。すでに都市のあぶれ者たちは孤児院や貧困家庭に満ちあふれ、彼らの世話をやく慈善団体や宗教施設や政府の福祉機関の負担になっていた。十九世紀には、地方公共団体は一教会区の救貧院で一人の子供を養うのに、年間十二ポンドかかるが、一方では、十五ポンドを一回支出すれば子供を外地に送りだし、それ以上の経済的責任は免れることになっていたのである。
英国の多くの都市、特にロンドンには社会の危機を招きかねない極貧の子供たちがあふれていた。ところが植民地には広大な空間が広がっていて、そこを生かすためにもっと多くの働き手を呼び求めていた。まさに一石二鳥というわけだ。子供たちは堕落と困窮から救われ、帝国とその自治領を潤すために送り出されて行く。かの地では、さわやかな空気と勤労と宗教教育とが彼らを立派で正直な市民に育て上げてくれることだろう」

受け入れるオーストラリアの狙いは安価な労働力の確保である。
1945年、オーストラリア政府は人口を増やそうとして、児童移民を進める。
政府が作った概要書にはこうある。
「児童移民の分野でただちに大きな努力を払わねばならない特別に緊急の理由が存在する.戦争という特異な状況はヨーロッパにかつてない多数の孤児、浮浪児、〝戦時ベビー〟等を生み出した。これは、オーストラリアが児童移民を受け入れて人口を増加させるに当たって、現在をして比類ない幸運の時とするものである。子供たちは同化、順応しやすく、将来にわたり勤労年数も長く、住居提供も簡易にすむから、戦後の初期の数年間特に魅力ある種類の移民である」
オーストラリアに移民させられた児童は1万人近くらしい。

児童移民の経費はイギリス、オーストラリア、西オーストラリア州の各政府が共同で負担した。

多くの福祉団体は、児童移民が劣悪な施設に入れられ、教育的配慮がなされていないなど、問題があると警告を出している。
しかし、1967年まで児童移民は続けられた。
まさに棄民である。

他人事ではない。

訳者はあとがきに「日本にも存在する類似のケースを思い浮かべずにはいられない」と書き、そして中国の残留孤児、そしてエリザベス・サンダース・ホームから海外に養子に出された子供たちを挙げている。

オーストラリアに移民させられた子供たちは、施設での少ない食事にお腹をすかせ、暴行や性的虐待を受け、重労働をさせられる。
預けられた家ではただ働きをさせられ、、ののしられる。
映画を見ていて、児童移民とはどういう話か知っていたが、『からのゆりかご』を読み、一人ひとりの訴えには圧倒された。

実の親が生きていても、死んだと聞かされた。
自分の名前、生年月日、生まれた場所、家族の有無などを知らない人もいる。
自分が誰かわからない。
すべてから拒否されている。
アイデンティティとはこれか、と思った。

秦恒平氏は『死なれて・死なせて』で、生まれて間もなく里子に出された自身の実体験を書いている。
実の母は子供と会いたくて養家を訪れたりしており、子供心に「この人が実の母だ」とわかったが、会うことを拒否し、お土産も受け取らずに逃げていた。
ところが、26歳の時に母が亡くなったと聞く。
死んだという知らせを受けた時から、何とも言えない思いと悲しみと、足下が崩れていくような深い喪失感を感じて、それがきっかけになって小説を書き始める。

『ロングウェイ・ホーム
は、幼いころに里子に出されて別れた三人兄弟が16年後に再会するという事実に基づいた映画。
長男が弟妹の居場所を手を尽くして探すのだが、どうしてそこまでするのか、映画を見たときにはよくわからなかった。

養子になった人の自助グループでは話が尽きなかったと、マーガレット・ハンフリーズは書いているが、実の親を知らない人も同じように自分というものに自信を持てないあやふやさを感じているのかもしれない。

コメント
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