三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

スタッズ・ターケル『「よい戦争」』1

2013年03月27日 | 戦争

宮城顗先生の講話の中で、原爆投下後の長崎に入った米軍兵士の話が紹介されていた。
その話は、スタッズ・ターケルが第二次世界大戦についていろんな人にインタビューした『「よい戦争」』(1984年刊)に載っている。

題名の「よい戦争」というのは、アメリカ人は第二次世界大戦をファシズムに勝利した「よい戦争」と考えてきたから。

しかし、「よい」と「戦争」は言葉としてなじまないとスタッズ・ターケルは言う。

原爆に関わるインタビューから、いくつか紹介しましょう。
まずは宮城先生が話されたビクター・トリー「全米原爆復員兵協会」を。

海兵隊員だった。
「1941年に戦争がはじまったとき、私の暮らしはまったくアメリカの夢そのものだったよ。白いくいがきの小さな家、小さな女の子、優しい妻、それに立派な職業だ。29歳で、熱烈な愛国者、好戦派だった。海兵隊に入ったんだよ」

広島に原爆が投下されたときにはサイパン島にいた。

「我われは歓声をあげ、かっさいし、だきあい、とびあがった。たぶん、このいまいましい戦争は終わりになって、我われ日本本土に進攻しないすむってね。みんなそう思ったんだ」

若い中尉から「我われは長崎を占領しに行く」と指示される。
「百年たたなければ誰も入れないといわれてるのに、どうやって長崎を占領するのでありますか」と質問すると、中尉は「海兵隊員、心配することはなにもない。科学者がすでにはいっている。きわめて安全だ」と答える。

9月23日に長崎の港に入り、次の日、長崎の街を見に行く。
「墓場にはいりこんだようだった。完全に静まりかえっている。あたりは、死のような臭いがする。ひどい匂いなのさ」

ある日、合州国科学探検隊と船側に書いてある船が入ってくる。

「おれたち二週間ほどここにいたことになるじゃないか。いまごろになってこの科学部隊を送ってきやがって。安全かどうかを調べようってんだぜ。おれたちはたぶん子どもができないってわけさ」
みんなで冗談を言い合って笑った。
深刻に考えたことはなかった。
しかし、口には出さなかったが、心のどこかでだれもが気にしていた。

この原子爆弾は何をしたのか。
「ある日相棒たちからはぐれてしまったことがある。見知らぬ街にひとり。敵兵だよ、私は。ちいさな日本人の子どもたちが道で遊んでいる。アメリカ人の子どもたちとまったく同じように遊んでるんだが、私はオーイといって手を振ったんだ。こっちをみると、海兵隊だろ。みんな逃げる。ひとりだけ逃げない子がいて、私はその子に近づく。英語がわからない。私も日本語がわからない。しかし、なんとなく通じるんだ。基地に帰ろうとしてるんだということを伝えようとする。彼が、ワイフが私に送ってくれたこのブレスレットに目をつけるんだ。
なかには、娘ふたりとワイフの写真があるんだ。彼はそれを見て指さすので、私はそれをあけて写真を見せる。彼の顔が輝いて、とびはねるんだよ。自分の住んでいる二階のほうを指さして、「シスター、シスター」というんだ。身ぶりで姉さんが腹ぼてだっていうのさ。
このちびさんが家にかけあがっていって、父さんをつれておりてくる。たいへんいい感じの日本の紳士だ。英語が話せる。おじぎをして「おあがりになって、お茶でもごいっしょにできれば光栄です」というんだ。それで、この見ず知らずの日本の家にあがりこんだんだよ。炉だなみたいなところに若い日本兵の写真があるので、「息子さんですか」ってきいてみた。「これは娘の夫で、生きているかどうかわからない。何も聞いていないのです」というんだ。
彼がそういった瞬間、私たちと同じように日本人も苦しむんだってことがわかりはじめたんだ。彼らは息子たち、娘たち、親類を失ってるんだ、彼らも苦しむんだってね。
日本人には軽蔑しかなかったんだよ。日本人が残酷だっていう話ばかり聞いてね。私たちは日本人を殺す訓練をうけた。敵なんだ。パールハーバーで連中がしたことを見ろ。しかけたのは連中だ。だからこらしめてやるんだ。この男の子と家族にあうまでは、それが私の気持だったんだよ。姉さんがでてきて、おじぎをする。ものすごく大きな腹をしてる。あの瞬間を私は忘れないよ」

ビクター・トリーは広島長崎復員兵委員会に加わる。
異常に多くの復員兵が、癌、白血病、多発性骨髄腫、その他の血液の病気などにかかっていることがわかる。
「私は政府を信じてた。ルーズベルトのいうことは何でも、神にかけて――いやルーズベルトが神様だったけどね――信じたのさ。(略)いまじゃ、私は疑うことができる。政府を疑っているんだよ。アメリカ人はみんなそうするべきだ。(略)
大統領だろうが誰がなんといおうがだめだよ。私は自分で考えなけりゃならないんだ。そして、みたものは、みたんだ。
私たちは、あのふたつの原爆を軍事施設に落としたんじゃない。私たちは、女たち子どもたちの上に落としたんだ。私がとんだりはねたり、相棒とだきあって、得意になってたその瞬間に、道路に幼い赤んぼがころがっていて、黒こげに、焼かれて、生き残るチャンスがない。七万五千人の人間がいて、生きて、呼吸して、食べて、生きたがっていた。それが一瞬にして黒こげにされてしまった。これはアメリカが永遠に背負わなければならないものだ、と私は思う」

アメリカ軍は、日本兵は夜でも目が見えるなどと信じていたという。
日本にしたって、
鬼畜米兵、女は強姦されて殺されると、自分たちがやってたから、そうされるものだと思い込んでいた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、知ることの大事さを思う。

コメント (6)
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