三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

池波正太郎という生き方

2013年03月04日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

カレーライス
〔カレーライス〕とよぶよりは、むしろ〔ライスカレー〕とよびたい。戦前の東京の下町では、そうよびならわしていた。……。

池波正太郎といえば、「鬼平犯科帳」「剣客商売」で有名な、時代小説の直木賞作家。新国劇の脚本家でもある。それがどうしてカレーライスなのか。
数年前、お寺の法話会で、ある方から一冊の本を頂いた。池波正太郎著「食卓の情景」(新潮文庫)である。どうして、時代小説の作家が食べ物のエッセーを?と一瞬の戸惑いがあったが、一読するやそのおもしろさの虜になった。


池波正太郎は、文筆業の傍ら、芝居の脚本家としても活躍したが、無類の美食家でもある。しかし、いわゆるグルメといった鯱張ったものではなく、実に浅草育ちの歯切れのいい江戸っ子として、食に対する美学を語る。しかも、食べ物のうまさを語りながら、そこに出てくる料理人の生き様やそれを食する粋な男の美学を語ってくれるのである。
私は、引き込まれるように「散歩のとき何かたべたくなって」(新潮文庫)や、「男の作法」(新潮文庫)という本を買って読んだ。


その「男の作法」という本の中に、次のような一節がある。

「人間という生き物は、矛盾の塊りなんだよ。死ぬがために生まれてきて、死ぬがために毎日飯を食って……そうでしょう、こんな矛盾の存在というのはないんだ。そういう矛盾だらけの人間が形成している社会もまた矛盾の社会なんだよ、すべてが。」
これは、組織というテーマで野球のチームについて語っている一節である。

もう一つ、

「男は何で自分をみがくか。基本はさっきもいった通り、「人間は死ぬ……」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。もうそのことに尽きるといってもいい。何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。そう思えばどんなことに対しても自ずから目の色が変わってくる。
そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。逆にいえば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。」
これは、運命というテーマで書かれた一節である。あえて私の蛇足は必要ない。人間の真髄を言い当てている。

池波正太郎は時代小説の作家であり、主人公は、多くが侍である。常に、死というものと向き合って生きなければならない生活を侍たちは送っている。鯉口(刀のさやとつばの境目)三寸切ったら、自分が死ぬか相手が死ぬか、いのちのやりとりをしなければならない。責任は、死(切腹)を意味する。そんな侍だからこそ、いのちというものの尊さや生きていることの喜びを肌で感じていたのかもしれない。
豊かさの中で、死を見ない生き方、死を遠ざける生き方をしている現代の私たちへのメッセージが、池波正太郎という生き方なのかもしれない。

コメント
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