三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

斎藤信治『哲学初歩』

2006年03月21日 | 

木田元が丸谷才一との対談(『ゴシップ的日本語論』)で、斎藤信治という中央大学の哲学の先生はものすごく話がうまく、しかも難しいことを実に平易にしゃべってみせる才能のある人だった、という話をしている。

近所の床屋の親父だの洗濯屋の親父だのが斎藤さんの一般教養の哲学の講義を聴きにきて、教室の後ろのほうでうっとりして聴いていましたよ。

 

東大哲学科の同窓会みたいな集まりで喋る話と、酒田の農協の連中を相手に喋る話とまったく同じレベルの話ができるんです。東大出の哲学研究者たちがみんなうーむと唸るぐらいののみごとな話をしてみせる。それと同じレベルの話を酒田でやって、農協の連中をもはーっと感心させる。


『哲学初歩』に、農協の人相手に話したことがそっくり入っているということなので、図書館で借りました。
哲学とは何か、ということから始まり、なるほど、わかりやすくて面白い。
しかし、だんだんと難しくなるのが世の常で、カントあたりでこんがらがり、ヘーゲルではむむむとなってしまいました。
斎藤信治はこのように問う。

哲学とは究極絶対のものの探究のことにほかならないのですが、いったい哲学ははたしてその究極絶対の境地を学問的に把握しつくすことができるものなのでしょうか。


ソクラテス、カントや実存主義は究極絶対(真理)を把握できないという立場であり、ヘーゲル、マルクスは学問によって到達できると主張している。
ソクラテスによると、

哲学とは永遠にその目標に到達することのできない真理の涯しない探究だということになります。

ヘーゲルだと

絶対者についての学問的な認識、それも残るくまなき完全な学問的な認識が現実に成立しうるとする。

両者は逆の立場です。
キェルケゴールの考えです。

根本的なことはそのためになら私がいつでも生きかつ死ぬことができるような理念を見出すことである。いわゆる究極的な真理などを発見したところで、それが私にとって何の役に立つというのだろうか。

「いつでも生きかつ死ぬことができるような理念」とは「究極的な真理」と別のものだとキェルケゴール考えているわけだ。

しかし、釈尊は真理を悟って仏になったわけで、究極絶対の境地を把握したということになる。

真理に到達できないのなら仏にはなれない。
となると、仏教では真理を知ることができるという立場なのか。

さらに考えたのだが、真理には二義あるのではないか。

1,私→真理
私が真理に向かって歩む、その歩みこそ宗教だということ。
2,真理=出発点
真理をものごとを考える立脚点とし、真理を出発点として歩んでいくということ。

1,だと、真理を求める気持ちが求道心、宗教心。

2,だと、真理とは仏教では縁起だから、縁起を判断基準としながら思索していく。

もちろん縁起という真理を知識として知ったというだけでは、究極絶対の境地を把握したということにはならない。

縁起の道理が自分の身となる、すなわち「生きかつ死ぬことができる」ことにならなければ。

もう一つ、『哲学初歩』を読んでわからないことがある。

何がほんとうに真理なのかということを真剣に探究しようとすればするほど、ひとびとは深刻な懐疑に襲われざるをえないことになりましょう。

このように、斎藤信治は懐疑を重要視している。
「本当にそれは真理なのか」と疑う懐疑精神がなければ、盲信、狂信に陥ってしまう。
だからといって、縁起という事実も疑っていたのでは、よって立つべき立脚地がなくなってしまう。

で思ったのが、デイヴィッド・ロッジである。

ロッジはイギリスのカトリック作家なのだが、ロッジはカトリック教徒だからといって、神の教えに無批判だというわけではない。
ロッジの小説の主人公はぐちゃぐちゃと悩む。
たとえば『どこまで行けるか』で、イエスは神の子であること、処女懐胎、十字架上の贖いによる救い、こうしたことをまず信じるのがキリスト教徒の条件なのだが、登場人物たちは信じきれない。
あるいは、どうして避妊してはいけないのか、どうしてウエハースが聖体で、しかも神の肉体なのか、そういった疑問に悶々とする。
かといって、キリスト教から離れることもできないので、ぐちゃぐちゃと悩む。
そういうロッジのグチグチしたところが好きです。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする