三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

松本史朗『縁起と空 如来蔵思想批判』 1 釈尊のさとり

2005年01月16日 | 仏教

松本史朗『縁起と空』を読んでいろいろ考えた。
といっても、この本は論文を一冊にまとめたものなので、正直なところちんぷんかんぷんなページが大半なのですが。

松本史朗氏の基本的立場は
1,仏教は縁起の教えである
2,縁起とは十二支縁起である
3,仏教は我(アートマン)の実在を否定する
ということだと思う。

このこと自体はもっともだと思うが、しかし松本史朗氏の過激な点は、これ以外の教えは仏教ではないと、あっさり切り捨ててしまうことである。

仏教思想から“ヨーガ”と“禅定”に関わる思想をとり除きさえすれば、“正しい仏教”は自ずから明らかになると考えている。

駒沢大学の先生がこんなことを断言していいのかしらと心配したくなる。

釈尊は菩提樹の下で何をさとったか?

縁起だという説と、言葉では表現できない真理を直接に体験、真理と一体化したという説があるそうだ。
後者の立場に立つ玉城康四郎氏は、

法(真理)は、言葉を越えて直接に経験されなければならない。

と言っているとのことで、玉城康四郎氏の考えだと、釈尊のさとりとは一種の神秘体験だということになる。

それに対して、松本史朗氏は神秘体験を否定する。

釈尊の悟りは、決して不可説の、言語表現を絶した神秘体験ではなく、言葉と概念による一定の論理的構造をもち、従って、言葉というものから決して切り離すことのできない、明確で知的な認識であった。


では、釈尊は何をさとったのか。
縁起、それも十二支縁起である、というのが松本史朗説である。
縁起とは相依相関、つまりすべての存在はお互い関係し合って存在している、他と無関係に存在しているものはない、ということだと私は思っていた。
しかし松本史朗氏は、縁起とは十二支縁起だと言う。

十二支とは
無明(無知・愚)→行(行為)→識(認識)→名色(認識の対象)→六処(感覚器官)→触(接触)→受→愛(渇愛、欲望)→取(執着)→有(存在)→生→老死(苦)

老死(苦)は何によって生じるのか、それは無明(無知、愚か)によってだ、というのが十二支縁起ということだ。(かなり省略した説明であるが)

無明とは、「縁起の道理を知らないこと、無知」という意味である。
しかし「根本的生存欲(渇愛)」だという説もある。

釈尊が最初に説法したのは四諦だとされているが、四諦説によると、渇愛(欲望・執着)が苦の原因である。

だが、常に定説を否定する松本史朗氏は、四諦説は通俗的だとして排するわけですよ。
たしかに、欲望・執着を捨て去れば苦しみを滅することができるんだ、という教えは当たり前の発想であり、事実どの宗教でも説いていて、仏教独自とは言えない。

それと、欲望、執着が苦の原因だということに松本史朗氏がひっかかるのは、我(アートマン)の問題が関係しているからである。

我については後で考えるとして、釈尊自身は無明を滅したのか。

釈尊にとって“無明”は滅したとはいえない、と解するのが自然であろう。

と松本史朗氏は言っている。
つまり、釈尊は仏ではあっても、無明も煩悩も執着も、したがって苦も滅していないということになる。
なにやらホッとしました。

そしてさらに、松本史朗氏は、

人は、“渇愛の滅尽”を求めて、“只管打座”したり、“念仏”したりするわけではないのである。

とも言う。
行によって悟るわけではないということだとしたら、賛成です。

(追記)
竹村牧男駒澤大学学長の『唯識の構造』に、こんなことが書いてあった。

釈尊は縁起の理法を悟ったという。その縁起が十二支であったかどうかは、それほど問題のことであろうか。肝心なことはただ一つ、我々の迷いの根源は無明である、縁起の始源は無明にある、という発見である。無明というものをつきとめたことこそが悟りなのであり、縁起をいかに辿るかが悟りなのではあるまい。

松本史朗氏の主張を念頭において書かれたのではないかと思いました。

コメント
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