三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

トランスパーソナルと親鸞仏教

2005年01月06日 | 問題のある考え

親鸞仏教センターから出ている「アンジャリ」に、諸富祥彦氏(明治大学文学部助教授)が「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」という文章を書いている。
うーん、トランスパーソナルかあ、とまず思った。
トランスパーソナル心理学はグロフのようにトンデモと紙一重というのもあるので。
ということで、諸富祥彦氏の文章も用心しながら読まないといけない。

前半はニューエイジを知らない人が読むと、もっともだと感心するのではないか。
「感覚の変容」とか「私たちの内なる変容」といった言葉が気になり、裏を読みたくなるが、まあよしとしよう。

ところが、後半になると、「自らの意識水準をさまざまに変容させながら……」というくだりから、親鸞仏教からどんどこどんと離れていく。

私たちが意識水準を深め、より深い立脚点に置き、そこから世界を眺めたとするならば、すべては違った様相を見せてくる。

 

意識の水準が極限まで深められたその地点においては、もはやすべてのいのちは本来一つであるという、という“いのちのつながり”の相がありありと浮かび上がってくる。

瞑想などによって得られる神秘体験によって、意識が変容し、他者の意識とつながるようになると、諸富祥彦氏は言っているのである。
意識が表層から深層へと変化していく過程の中で世界が違って見え、さらには他の存在の意識と一体化し、もっと言えば過去や未来の存在ともつながりを持つということは、ニューエイジお得意の論理である。
このあたりのことは河合隼雄『宗教と科学の接点』や井筒俊彦『意識と本質』(井筒俊彦氏は神秘主義者だと思う)に書かれていて(内容はもう忘れてしまいました)、私自身も引き込まれたのだから、人のことは言えないけれども。

この世界の万物は、そのそもそものはじめから、常に、すでに、したがってまさにいま、ここにおいてもおなじように、“一つの同じいのちのはたらき”の異なるあらわれでしかなかったのだ。

という諸富祥彦氏の文章を読み、やはりニューエイジは梵我一如思想だと納得した。

トランスパーソナルの考え方はどうしても神秘思想と結びつきやすい。

そして、オウム真理教や幸福の科学といったニューエイジ系の宗教も同じ主張をしている。
そこを親鸞仏教センターの人たちは知っているとは思えない。
親鸞仏教はそんなのとは違うということをはっきりさせるのが親鸞仏教センターの仕事であるべきなのに。

「アンジャリ」第8号には、青木新門「光と言葉」という文章もある。
『納棺夫日記』に感動した私としては、青木新門さんの悪口を言いたくないのだが、どうも青木新門さんは「光」を実体的に考えているように感じる。

(追記)
諸富祥彦氏については『人生に意味はあるか』を読んで、その感想を書いています。
『納棺夫日記』についも後日書きました。

コメント (10)
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