あるお宅に総戒名と称する位牌があった。
総戒名というのは霊友会、立正佼成会などに入信したら、まずもらうことができる、先祖供養をする際の礼拝対象である。
梅原正紀『ふおるく叢書7 救い』によると、法華行者の西田無学はうかばれないもろもろの霊を供養しなければ不幸の根源は断てないと考え、戒名写しの行が発展して、「総戒名」と「法名送り」の秘儀があみだされた。
これが霊友会の創始者である久保角太郎に伝えられたのである。
で、そのお宅の奥さんに尋ねてみると、知り合いに誘われて入ったとのこと。
その方は実家の面倒も見なければならず、家の先祖と実家の先祖の両方を供養すると聞いて、ホッとしたそうだ。
でも、なぜ菩提寺ではなくて新興宗教なのか。
知人が
と話していたけど、どうして新興宗教なのか。
菩提寺よりも新興宗教のほうが敷居が低いのだろうか。
で、考えたこと。
仏教の本を読んだり、話を聞いたりして最初に思ったのは、どこかで論理がジャンプしているということである。
これこれこうだからこうなると話が進み、なるほどと思っていたら、急に話がぽーんとジャンプしてしまい、あれ、なんで、と思ったわけです。
たとえば、人間というものは罪を作らなくては生きてはいけない存在であるということが論じられる。
そこは納得。
その次に、そういう身を生きているものも、念仏一つで救われるんだ、となると、えっ、どうして、と思いますよね。
これは極端(でもないか)な例ではあるが、念仏とは、救われるとは、といったことをきちんとおさえて話が進んでいても、やはりどこかでジャンプする。
1+1+1+1・・・というふうにいくら続けても無限にはならない。
宗教は無限への信仰だから、どこかで有限から無限にジャンプしなければならない。
だから、論理のジャンプは宗教において必然である。
違和感を感じつつも論理のジャンプに納得するということが、信仰ということになるのだろうか。
でも、論理のジャンプにもいろいろあって、中にはトンデモと思えるジャンプがある。
前に書いた浅井昭衛「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」は、地球の環境破壊とか日本の大借金といったことは邪教を信じるからだというジャンプは、こじつけと言ったら失礼か。
血液型と性格や相性が関係あるというのも一種の論理のジャンプで、これまたこじつけである。
あるいは、地球に生物が誕生したことは本当に奇跡的なことだが、そこに神の創造を説くのは、私には論理のジャンプ、しかも安易なジャンプのように思う。
そして、西田無学の考えもそうだし、新興宗教に入信する人も。
また話は飛び、某氏より野田正彰さんの講演テープをいただいた。
講演の中で、オウム信者のグルへの絶対的帰依は天皇への帰依と同じだという話の流れで、戦時中の仏教者の大政翼賛的言動、アジテーションが批判されている。
たとえば、敵を殺すことが大乗の大慈悲心である、殺人即活人剣、一殺多生などということ。
戦時中にそういうアホなことをえらい坊さんたちが言っていたわけですよ。
敵を殺す=大乗の大慈悲心
これも論理のジャンプである。
驚いたのは、金子大栄が「仏教奉還論」ということを言っていたそうで、恥ずかしながら初耳であり、ショックだった。
天皇への信仰に帰依しているからもはや仏教はいらない、仏教は天皇にお返しすべきだ、ということである。
「ホウカン」という言葉、「幇間」のことかと思った。
坊主は天皇の幇間なわけです。
野田正彰さんは、日本人は矛盾しているものを同じだとし、異質なものを聖なるものに変えていく、すなわち西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一という論理、即の論理、はっきり言えばトリックが好きだと言う。
論理のジャンプに対して、「なんでそうなるの」と違和感をおぼえることは大切で、思考を深めるし、インチキを見分ける目を育てることになると思う。
おまけですが、野田正彰さんが講演の中で、河合隼雄さんや山折哲雄さんの悪口を言っていた。
嫌いなやつの悪口を聞くことほど楽しいものはない。
うふふ。