最近、車で町を走っていると目につくのが、セルフという看板だ。ガソリンスタンドのほぼ半数はセルフサービスになってきている。私はまだ自分でガソリンを入れることに抵抗があるので、セルフのスタンドには消極的である。
父親が昔、タンクローリーの運転手をしていた時、誇らし気に危険物取扱者の免許証を見せて、これがないとガソリンスタンドはできないんだと話していたことを思い出す。
しかし、バイトのお兄ちゃんがガソリンを給油していることを思えば、自分にもできるのだろう。でも、もしも失敗してまき散らしたり、引火でもするようなことがあったらどうしようと考えてしまう。以前に、洗車機のセルフができて、それもまちがったらどうしようと躊躇していた。今では、ガソリン代が馬鹿にならないので、少しでも安いセルフスタンドを探して入れる主婦も多い。
話は変わるが、ファミレスでもセルフのサラダバーやドリンクバーが目立つようになった。バイキング形式のファミレスや回転寿司の店もまさにセルフそのものだ。コストダウンするためには、セルフがもっとも人件費のかからない商売の仕方なのだろうが、どうしても味気なさが先に立つ。
セルフは、人に気兼ねなく、何でもほしいものを自分がほしい分だけ、しかも安く手に入れることができるという便利さはある。しかし、選択したものに対する責任は自分が負わなければならないということも出てくる。
インターネットが社会の中で大きな役割を担うようになり、通販の会社がプロ野球球団を経営するまでにいたった。セルフによる自己選択と自己責任という構図は、世界のグローバル化とともに人間社会に急速に伸張しつつある。そのもっとも最たるものがセルフキル=自殺である。年間3万人の自殺者が出る。人間は自分の死をもセルフするようになったのか。
セルフという言葉には大きな落とし穴がある。それは自立と孤立の問題である。本来のセルフとは自立を促すものだと思う。しかし、人間同士が関わるデメリットをできるだけ排除していこうとするセルフの考え方は、無駄を省き、効率をよくすることにはちがいないが、社会を分断し、人間を自立から孤立へと追いやっている。
自分でできるようになることと、一人で何でもすることとは微妙にちがう。人間の社会の中で、人が関わり合う場面が少なくなればなるほど、世の中は不安定になっていくように思える。今日もまた、セルフの看板を避けて走ってしまう。