A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』のつづきです。
来世ではどこに転生するのか。
こころの状態がどうなっているのかが、次に生まれるところを決めるポイントになる。
生命が犯した罪の強弱、回数、そして罪を正当化すること、罪の意識がないことなどの諸条件によって、その生命が次に生まれるところは自動的に定まります。
死ぬ時の状態を見れば、次に何に転生するかがわかる。
私たちはよく死にかけている人に会います。だいたい人を見たら、その人が来世でどこに行くかわかるものです。だから死の床についた人と会うときは、その人の意識に語りかけて、死ぬときには明るいこころをもつようにしてあげるのです。
スリランカでも「死ぬ時に穏やかだった」「死に顔が生きているようだ」というふうに、死に際の善し悪しを言うのかと、いささか驚きました。
死に際を気にするのは、その人の一生を死に際が表わしている、あるいは死に際が悪ければいいところに行けない、こういう気持ちがあるからで、これは日本人も輪廻を信じているという証拠かもしれない。
ある雑誌に看護師が次のようなことを書いている。
患者さんの最期に立ち会う機会を何度か経験しました。ご家族に見守られながら安らかに亡くなる方もいれば、一人寂しく亡くなる方もいらっしゃいました。危篤状態だと家族に連絡しても、誰も来ないこともありました。私は、人の最期にその人の生き方が現れるのだなあと思い、「人は生きたようにしか死ねないんだ」とつくづく感じました。
いらんお世話である。
死に方によってその人の一生がこうだったと決めつけるのは、亡くなっていく人に対して失礼である。
ましてや死に際と死後を結びつけるべきではない。
業について。
善悪行為のエネルギーは簡単には消えません。ポテンシャル(潜在力・業)として蓄積されます。しかし業(カルマ)はエネルギーですから、悪いエネルギーと強い善いエネルギーで抑えることは可能なのです。
供養について。
仏教の勧める供養とは、自分自身が精神的に徳を積んで清らかなこころの波動をつくって、その波動の影響をほかの生命に与えてあげることです。仏教用語で「回向」ということばを使っています。
遺族は善行為をして功徳を積みます。功徳を積むことで、遺族は清らかなこころを持ちます。その善行為が自分のために行われた供養だと知った故人は喜びます。喜ぶことで、故人に清らかなこころの波動が生まれます。清らかなこころの波動は善い業となります。その業の力によって、先祖は餓鬼道から抜けられるのです。
解脱について。
事実が見えれば見えるほど、輪廻がとことん嫌になるのです。くたくたに惨めに感じて、最後にものすごい恐怖感が生まれます。しかし、その次の瞬間に、こころがカチンと落ち着くのです。落ち着いたときには、もう真理がわかっています。「輪廻にはひとつもいいことがない」と。落ち着いたら、次に悟りのこころが生まれます。
悟りとは輪廻しなくなる、すなわち死んだらおしまいになることなのかと思ったら、そうではないらしい。
輪廻を解脱した生命は、存在の周波数が変わってしまうのです。
それにしても、40劫という無限とも言える時間を転生しても解脱できないとなると、スマナサーラ師の方法では解脱は無理ではないかと思ってしまう。
『死後はどうなるの?』には、「業はエネルギー」「こころの波動」「存在の周波数」などといった、ニューエイジャーあたりがよく使う、いかにも意味ありげだが日本語としておかしいし、仏教語でもない、そんな言葉が散見する。
そんなこともあり、私はスマナサーラ師の言っていることはまったく信じられないが、こういうのが好きそうな信奉者がいることは理解できる。
スマナサーラ師の考えはスリランカや上座部仏教では一般常識なのか、それともトンデモなのか、誰か教えてもらえないものでしょうか。
真宗教団の発するメッセージは、一方では説教者間だけで流通していて、もはや死語になってしまった感がある、昔ながらの教学用語を並べたご法話系か、そうじゃなければ沖縄の基地問題とかイラク戦争とか憲法や教育基本法の改正問題とかを扱う全共闘・政治問題系が大勢を占め、こちらも時代の趨勢とはやや離れたところにあります。
で、社会問題系内部でも問題から今やハンセン病問題にトレンドが移っているようですが。戦前、ハンセン病者に対してなされた処遇は、国家が打ち出した「隔離・排除」のイデオロギーによって数々の蛮行がなされたのでしょうが、その背景には庶民の中に広く流布されていた「前世の報い(業病)」といった観念の土壌があったからこそ当事者にも家族にも納得せしめたのだと思います。
今日も近しい人から「アカシックレコードリーディング」をしてもらったけど。。。という相談を受けました。アメリカのエドガー・ケイシーの用語を使って「前世」での所業が現世での運命に影響があるとのことで不安になられてるようです。まさに手をかえ、品をかえ輪廻転生というか因果応報というか「宿命論」というのがあいかわらず幅をきかせています。
「前世問題」とは、個人の生前の行いという身に覚えがなく確かめられなく直接責任がとれない問題ですが、現在の悩みと結びつけられ「物語」として案外受け入れられやすい。でも戦前の日本の蛮行に対する責任などといった、「湾岸戦争」も知らない子どもたち世代には、説得力というかピンとこない問題を迫るという社会派のやり方も方向転換する時期が来てるように思います。
うーん、厳しいお言葉。
私はそこまで言う勇気はありません。(笑)
悪いことをしたら罰が当たる、と言うことは、道徳・倫理ですから、まあいいと思いますが、こうなったのは悪いことをした罰が当たったと、結果から決めつけてしまいがちですよね。
原因を知りたいのは人間の本性とは言え、不合理すぎます。
輪廻にしても、業報と結びつくのが問題だと思います。
社会問題をどう語るか。
たいていの人はまず拒否反応を示しますからね。
これは真宗だけでなく、市民運動なんかでも考えないといけないことで、じゃないと全然広がらないまま、仲間内で盛り上がっておしまい、です。
おれが霜焼けだったころ、おふくろは朝焼けで妹は胸焼けだった。。。わっかるかなあ。。。わっかんねえだろうなあ???
マックスウェーバーだったか、上座部仏教っていうのは達人の宗教だとか言う人がいました。まあ、バイオリンの達人にバイオリンを教わるとか空手の達人に空手を習うと、上達が早いかな?(円さんどうでしょ?笑)
それとも名プレイヤーは必ずしも名監督にあらずかなあ。教えるのが上手い下手もあるかも。人生で様々な経験をした人とか、その道一筋に何か極めた人の話というのは確かに拝聴に値するものがあるかも知れませんが、解脱とか瞑想とか霊能力の達人の経験ってわたしみたいな凡人には、参考にならないみたい。
そんな恐れ多い。
いい話というのは、いい話なんですが、なんだかね、というのがあります。
たとえば、ガンになってわりとケロッとしている人がいますね。
落ち込んでも、「どうせいつか死ぬんだから」と気持ちを切り替えるのが上手なんですよ。
ああ、そういう人になりたい、とは思います。
しかし、私のような人間には参考にはならないんです。
私は、ガンになってとことん落ち込んだ、グチグチ、めそめそ、その中でぐちゃぐちゃと考えています、という話のほうが好きです。
現在は、60年代のような「政治の季節」ではありません。まあ、ワイドショー的に「小泉劇場」が話題になりますが、実際に国会にデモに行った人など学生さんでもまれでしょう。
「世の中の矛盾と不幸な人々の存在に気づき、これらの問題にコミットして理想の状態に近づくべく社会に参与せよ」というのが社会派の大人たちのメッセージです。でも、私などもひきこもりであったり不登校であったりニートであったりしたわけですが、身近な人間関係がうまく作れないのに社会の大問題など考えられる余裕がなかったりするのが実情ではないのでしょうか?
障害者や、アイヌ、沖縄、在日コリアンや。そういった人々のことを「社会問題」ととらえ、自分が差別してきた側(もしくはその実態を知らずにのんきに過ごしてきた側)にいるのであるから、君の今までの罪ほろぼしとして解放運動に参加せよそれがムリならせめて金を出せ(笑)と言われたってね。。。という感じがしてました。
けれど、人は「差別」とは違っても生活の場面でさまざまな困難を抱えています。踏まれた痛みは踏まれたものでなければわからないとよく言われますが、じゃあ障害者の痛みは腕の五、六本もへし折らなければ分からないものでしょうか。
「文学」という表現(映画や芝居やアニメや詩などを含む)なら、社会の問題としてではなく、差別を生きるということはどういうことか。またその人はその状況に置かれた中でどういう態度をとり、生きようとしているのかが描かれます。そういうものであれば、自分の生の中での感触と交わるものもあるなあと思います。
ある人はお寺に生まれていやいやながら跡を継がなければならない。さらに檀家さんの期待(視線)がうざったい。ある人はに生まれて、そのことでいじめられ、好きな人ができても事実を告げられない。。。人は生まれを選べないという点ではいっしょなんだな。。。で、そこをどうやって超えるかという課題。。。
生きた人間同士のかかわりを回復していくという方向で問題が語られないことが、社会派が受けない理由なのではないでしょうか。
逆のような気がします。
関わりなんて面倒だから関わりたくない、のでは?
「世の中の矛盾と不幸な人々の存在に気づき、これらの問題にコミットして理想の状態に近づくべく社会に参与せよ」
ということですが、不幸な人と関わるのはしんどいし、重たいし。
それと、社会派は正論を振りかざします。
お前はわかっていない、と言われているような気がしまして、一歩ひいてしまいます。
もうちょっと作戦を練らないと受け入れられませんよね。
うん、そうですね。まあ、面倒だけどかかわらざるを得なくなった人(たまたま身内が(中途)障害者になるとか、自分の友だちが実は在日コリアンだったとか)はその人と関ることになるのだし(まあ、面倒を避けて付き合わなくなったり、遠ざかったりもしますが)、正義を振りかざしたいという欲求やら後ろめたさから、関る人も確かにおられる。
私自身は、一時期は「運動」という形に多少参加しましたが、今ではそのような形(自分ではそう思っています)では関ってません。疲れますから。で、普段のお付き合い、仕事上でのお付き合いの中にいろんな人がいることを再発見しています。そういった付き合いの形のしんどさなら、自分的にはOKです。
モチベーションなんて、知ったげに英語を使うのは嫌いですが、けどモチベーションですよ。
社会運動にかぎりませんが、「~ねばならない」というのではなく、「したいからする」ということじゃないと続きませんよね。
「楽しいからする」というのが一番ですが、なかなかそうはいきません。
出会いが次の出会いを生み、と次々と連鎖して新しいものを生んでいくと、楽しくなるんでしょうけどね。
お邪魔でしたらごめんなさい。
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか・・・?。
この世界の終末はどうなるのでしょうか・・・?
神の存在、愛とは何か、人生の意味は何か、いのちと死の
問題などについて、分かりやすく聖書の福音を書き綴ってい
るブログです。暇なときにご訪問下さい。