「死刑囚の絵画展」でのアンケート結果を某氏からいただきましたた。
いくつかご紹介します。
「涙がとまりません。罪を悔いる人の命を奪ってはいけないと、心から思い至りました。(60代)
「死刑囚の生活環境はひどいものだと聞いているが、よくそのひどい環境の中で、これだけの作品を生み出せるということにまず驚いた」(40代)
「殺人を犯した人を許せるようになりたい。その立場に立った時どうすればよいか分からない」(20代)
「死刑囚が描いた絵の1つ1つから、彼らもまた人間であるということを感じられた」(20代)
「何故このような素晴らしい作品を残し、作り続けている人が、罪を犯してしまったのか、縁の深さ、すごさに胸が締め付けられます」(70代)
死刑囚の絵画を見て「すばらしい」と感じる人ばかりではありません。
「人を殺したりする人の絵は、何かとても恐ろしい物を感じます」(40代)
私はすばらしいと思う人より、どのように恐ろしいと感じてたかに関心があります。
死刑制度についても死刑賛成の方の感想もあります。
「「国家的殺人」と云う言葉は違和感を覚える.仏教の教えにも天国と地獄があります。悪い事をしたら人は地獄に落ちると日本人は学びました。
悪い事もしないのに命をうばわれた人々はどうなりますか? その子、その家族は? 肉体は滅びても罪は永遠に消えません」(70代)
「自分の子どもが被害に会ったら加害者を助けますか。疑問に思う。裁判になったら加害者を守り、遺族は見守るだけ。
オウムの宗教こそ全員早く死刑執行を願う。10年も生きている事が国の損失である。死刑廃止は反対です」(80代)
「死刑がよくないという事はわかります。裁きは人間がするものでもありません。死刑確定者達の想いも伝わりました。
でもなんであろうが悪い事をしている以上、死刑制度は必要だと想います。なにもかも許しの心をもてる人は人間ではなく“ホトケ”です。
であるならあやまちを犯した人間達は裁きを受け、後悔し、苦しみながら死をもって償い“来世”に生まれればよいのだと思います」(30代)
「死刑制度を被害者家族の救済と考えるのではなく、そもそも罪を犯さないための社会的ルールの一環と私は考えます。罪を犯した人を死刑にすることはそのルールを守るものであり、やはり必要なことだと思います」(20代)
「絵をかざっている死刑囚が何をしたか、書くべき。卑怯。卑劣。姑息。偏りがある」(20代)
「死刑を国家や法による殺人と捉えることに違和感があります。死刑に値するほどの犯罪を犯した者が悪いのであって、死刑は殺人ではなく因果応報です。国や法のせいにすべきではありません。
私は死刑執行に賛成しているわけではありません。それほどの犯罪おとはを犯すことのそのものに反対しています。家族の支え、社会の支え、自身の心のよりどころとなるもの全てに背を向け犯罪に手を染めてしまう者の、最後のとりで、ストッパーとなるものが死刑制度だと思います。死刑制度が抑止力にならない=自分の命に興味がない者は残念ですが、他の何であっても止めることは難しいと思います。しかし、死刑への怖れが犯罪を思いとどまらせることは現実にあるはずです。死刑に反対するのではなく、犯罪行為そのものをなくす運動の方が大きな価値があると思いました。死刑は遺族感情のためでも、国による殺人でもなく、犯罪を犯した者自身が選んだ道です」(30代)
「犯罪行為そのものをなくす運動」の一つが「社会を明るくする運動」です。
〝社会を明るくする運動〟作文コンテスト入賞作品に、小学校6年の女の子がこんなことを書いているので、一部ご紹介します。
また、社会の人々の目も大切です。もし、あなたが犯罪をおかしてしまって刑務所に入ったとします。その何年か後、しっかり反省して、あなたは刑務所から出てきました。でも、社会の人たちは、あなたのことを冷たい目で見てきます。そんな立場になったとき、あなたはいやな気持ちになりませんか。きっといやな気持ちになると思います。
だから、今の社会に必要なのは、その人のやったことに対して冷たく当たるのではなくて、やってしまったことは、やってしまったこととして、その人の未来をしっかりサポートしていってあげることが、今の社会に必要なことだと思います。
このように、人が、犯罪、非行をしてしまうのは、今の社会のせいであるのかもしれません。大切なのは、大人になっても、はなれていても続く親友という関係と、暖かく見守ってくれる家族、そして、今の社会を生きる私たちの暖かいサポートがあってこそ、明るい社会ができると思います。
排除しない社会が犯罪を減らすのだと私も思います。
ブログを読ませていただき誰かを死刑しれと思う基準は人それぞれ違うんだなと思いました
秘密保護法だってどうなることやら。
執行の方法としては、石打ちとかあります。
残酷とか野蛮も国によってさまざまですね。