アルコール依存症の自助グループのメンバーのお話「酒害の体験談」です。
アルコール依存症は否認する病気なんだそうだ。
自分はアル中ではない、酒をやめようと思えばいつでもやめられるとか、自分はほんとはこんな飲んだくれではないんだとか。
そして、人との違い探しをする。
あの人たちとは違う、自分はまだ若い、精神病院に何十回と入ったわけではない、自分には家族がいるし家もあるなど。
あるいは自己憐憫、被害者意識。
そんなふうに考えている間は酒はとまらないそうだ。
自分の力では生きていくことがどうにもならなくなったことを認めるのが第一歩。
そして仲間の存在。
一人では酒はとまらない。
真宗的だと思う。
アルコール依存症は否認する病気なんだそうだ。
自分はアル中ではない、酒をやめようと思えばいつでもやめられるとか、自分はほんとはこんな飲んだくれではないんだとか。
そして、人との違い探しをする。
あの人たちとは違う、自分はまだ若い、精神病院に何十回と入ったわけではない、自分には家族がいるし家もあるなど。
あるいは自己憐憫、被害者意識。
そんなふうに考えている間は酒はとまらないそうだ。
自分の力では生きていくことがどうにもならなくなったことを認めるのが第一歩。
そして仲間の存在。
一人では酒はとまらない。
真宗的だと思う。
ボランティアは世のため人のためというより、やっぱり自分のためだろうし、じゃ何を得るのかというと、生きがいみたいなものを求めているのでしょうか。
>はじめから、18願だけでいいやないかと思うけど。
あっちへふらふらこっちへふらふらですからね。
でも、ふらふらしたことも大切な道筋だったということでしょう。
山歩きでも、道を間違えずにすいすいっと山頂に着くより、道を間違えて苦労したほうが、あとあとまで思い出話になりますし、次に道を間違えても、ああ、またかともとの道に戻れます。
でまあ、浄土真宗では何で三願転入などというややこしいことをいうのか。はじめから、18願だけでいいやないかと思うけど。
最初から北極星だけを指し示せばいいのにと思うけど。カシオペア座や、北斗七星を見出すほうが簡単だからか。うーん。
でまあ、どうやったら北極星の位置を人に伝えられるか、教えられるかというよりも、カシオペア座も北斗七星も見失っている私じゃあないのか。。。
「お念仏を称える」というのも極楽へ往生するという見返りを期待して行うということですかね。
死後あるかないかわからないような極楽浄土。うーん。極楽は、死後の実体化した世界ではなく、現世で念仏者を導き、その歩みを励ます北極星のようなものなのかな。
その北極星は、なぜゆえ旅人にとって目じるしになるほどの輝きがあるか。どんな人をもえらばず、きらわず、みすてず照らし続けるからか。
にもかかわらず、北極星に背を向けて生きるわたし。でも闇夜の道で、途方に暮れている人たちにどうやったら、あの星を見つける方法を伝えられるのか。。。
http://kids.gakken.co.jp/campus/academy/jisaku/contents/048hokkyoku.html
http://chinaalacarte.hp.infoseek.co.jp/kanshou-113.htm
見返を考えると、これはなぜボランティアをするのかに通じるように思います。
インドで仏教がどのように社会と関わったのか、インド人は歴史を残すのが好きではないようだし、仏教は12世紀には滅びてしまったりで、それを具体的に知ることはやっかいかもしれませんね。
確かにその通りなのですが。
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/comp5.html
>『梵網経』は中国で成立した偽経だそうです。
福田思想そのものは、インドの経典でも説かれているのです。
この分野に関しては四天王寺国際仏教大の名和月之介先生の研究がいちばん。
http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/toshokan/kiyo2004w-02nawa.pdf
>たとえば、『長阿含第六小縁経』には「四雙八輩是れを如来の弟子衆と為すなり。敬ふべくして尊ぶべし、世の福田なり。応に人の供を受くべし」とある。
『大智度論第十二』には憐愍福田、恭敬福田の二種をあげる。これは仏菩薩及び学無学の人を大徳田または恭敬福田と称し、老病貧苦等の人を貧苦田または憐愍福田と名づけるものである。
『優婆塞戒経第三供養三宝品』には、報恩、功徳、貧窮の三種の福田をあげ、父母師長和上を報恩田、煖法を得てから乃至仏果を得た人を功徳田、一切の窮苦困厄の人を貧窮田と名づける。
>大乗の勃興とともに社会に目を向けるようになったというのであればうれしいのですが。
もちろん維摩経には
もろもろの衆生において愛すること子のごとし。衆生、病むときはすなわち菩薩も病み、衆生、病癒ゆれば、菩薩も癒ゆ。
あるいは勝鬘経の
もし孤独(幼くして親のない者、老いて寄る辺内ない者)、幽繋(牢獄に捕らわれている者)、疾病、種々の厄難、困苦の衆生をみれば、ついにしばらくも捨てず、必ず安穏ならしめんと欲し、義をもって饒益し、衆苦を脱せしめ、しかるのちにすなわち捨せん。
「出家者が医師のような医療行為を行った場合に、比丘尼は波夜提の罪、比丘は越毘尼罪に相当する」
というのは驚きです。
そういえば五明の中に医方明があります。
仏教徒は五明に通達していなければならないのですから、医学に通じるのは当然ですね。
どのあたりから変わってきたのでしょうか。
大乗の勃興とともに社会に目を向けるようになったというのであればうれしいのですが。
関係ないですが、じゃんけんには仏教語源説があります。
↓の一番最後らへんの文章。註のすぐ前ですが。。。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho35/s35_072.htm
>つまり、出家者の目的はまず自らが生死の輪廻を越え、自ら実践したその教えを世間へと伝え広めることにあり、医師のように活命することを目的とした治療法は、出家の法ではないという。
しかし時代が下って、義浄が『南海寄帰内法伝』をあらわす頃になると
>仏教教団の治療者たちの癒しの手が、教団の僧院内から一般庶民へと及ぶに従い、僧院には死を看取る場(ホスピス)や施療院が設けられ、仏教の人気は高まり在俗者による教団の維持も確保される。
と変容していったことがわかります。
また、玄奘が訳した『瑜伽師地論』では
http://naritasan.or.jp/chiko/kantogen1811.html
もろもろの菩薩はもろもろの有情において、よく義利を引く彼々の事業において、ともに助伴となり、もろもろの有情において生起するところの疾病等の苦に従い、病等にせん侍し(仕え)、また助伴となる。
もろもろの菩薩は資生の衆具(生活必需品)にきぼう(事欠く)もろもろの有情類において、一切の資生の衆具を施与す。
などという一節が見えます。
インドでは僧侶が僧院にこもって社会と向き合うことをしなかったから、イスラム教徒の侵入の際に寺院を民衆が守らなかった、という説が念頭にありました。
もう一ついいわけを言うと、インド仏教史は教学を中心に語られていますから、社会との接点はあまり取り上げられていないように感じます。
と、ごめんなさいと言いながら質問。
アショカ王は在家ですよね。
インド思想では在家は善根を積んで天に生まれるしかありません。
仏教教団では出家は生産活動に関わらないのが原則だと思います。
インドでは出家者が社会事業に関わった例があるのでしょうか。
『梵網経』は中国で成立した偽経だそうです。
>『増一阿含経』では病気の比丘を仏陀がじきじきに看護されていることが記されています。
弟子のヴァッカリが死を目の前にして釈尊に来てほしいと頼むと、釈尊はすぐに来ました。
でも、それは仏弟子だからで、誰にでもそういうことをしたでしょうか。
上にあげた「仏説諸徳福田経」は300年頃、法立(ほうりゅう)法炬(ほうこ)訳。
中国でできたという『梵網経』ではこの七福田から、八福田に変わります。経典を注釈した華厳宗の祖・法蔵は
①広い路や井戸を掘る②水路に橋をかける③険路を平坦にする④父母に孝養を尽くす⑤沙門を供養する⑥病人を供養する⑦苦厄を救済する⑧無遮大会を設ける
とあげられました。これを見ると、私たち「凡夫」には確かにできないこともたくさんありますね。円さんはインドでは、利他行としての社会事業など行われた形跡などないのではと疑問を出しておられますが。
社会事業をどの範囲で考えるかですね。かのアショーカ王の事跡を見ると、貧者のための施設や病人のための病院。薬草の栽培、それを人間から動物まで与え、井戸を掘って、樹木を道路に植え、休憩所を設置。無益な殺生を戒め、異民族の保護につとめ、囚人にも恩赦を与えたと伝えられてますよね。
「梵網経」には
なんじ仏子、一切の疾病の人を見ては、常にまさに供養すること、仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田の中には看病福田は第一の福田なり。
とあります。病者に対しては、古くから仏教では世話をするように説かれてますね。『増一阿含経』では病気の比丘を仏陀がじきじきに看護されていることが記されています。
>諸仏供養というのも、もともとは生きた出家者にその生活を続けてもらうために、生活必需品を提供するという単純なことなのではないでしょうか。
貧者の一灯という言葉がありますが、生活必需品の提供だけではないと思います。
供養するということは善い結果を生む行為である功徳を積むことではないでしょうか。
灯明を供養した貧者は供養する対象である仏を尊敬し、大切にしたいという気持ちから行ったのでしょうが、通常は善い結果(たとえば来世で天に生まれるなど)を求めてのことだと思います。
そのあたりを真宗坊主としては、ついこだわってしまいます。
で、出家者は生産手段を持たないのだから、信者が生活を養うのはインド宗教全般で行われています。
出家者は実在しますが、諸仏はそうではありませんから、諸仏への供養と出家者へのそれとでは違うように思うのですが。
>自分がお米を作らなくても、それを作る人に「投資」する。そうして、出来たコメを分け与えてもらう。
お金や食べ物を労働者に投資するという業によって米を得るわけですから、やはり自業自得でしょう。
>おコメを作れないひと、お金を充分かせげないひとに、コメやお金を振り向ける。これが阿弥陀さんなのでは?
これは如来回向のたとえとしてわかりやすい気がします。
考えさせてください。
諸仏供養というのも、もともとは生きた出家者にその生活を続けてもらうために、生活必需品を提供するという単純なことなのではないでしょうか。インドは暑いし、体臭を消すために香が必要で、明かりが必要だから灯明の油を捧げるのではないでしょうか。
自分が出家生活をして、輪廻を断ち切り涅槃を得ることができなくても、その出家者の生活を支える。それが善行なのでは?
田植えをしたら、お米ができる。収穫物を得るということ。労働をしたら賃金がもらえる。それは、「自業自得」ですけれど。自分がお米を作らなくても、それを作る人に「投資」する。そうして、出来たコメを分け与えてもらう。
あるいは、お米を作った人が無償でその収穫物を他人に分け与える。おコメを作れないひと、お金を充分かせげないひとに、コメやお金を振り向ける。これが阿弥陀さんなのでは?
諸仏供養は仏弟子の必須条件ですからね、重要なことはわかりますが、花や香油をお供えすることがどうして行になるのか。
尊敬し大切にすることの具体的表れということでしょうか。
功徳というのも妙な考えで、善いことをする(因)→善い結果を得る(果)ということですが、通常の因果関係では考えられない飛躍があります。
風呂にはいると健康にいいというのはともかく、たとえば灯明を施すことがどうして来世での福となるのかというように。
その功徳を他者に振り向けるのが回向で、これは自業自得の道理から言うとおかしいわけで、そのあたりも論理の飛躍があり、そこが宗教なんでしょうね。
これも、私に聞かれても(笑)。功徳があるから、これこれこういうことをすればいいよ、というのはお経の常套句ではないでしょうか。経典を書写することとか、お経について解説するとか基本中の基本でしょうけど。当時の公共広告機構みたいなものですか。
まあ、お風呂に入る功徳を説く『浴仏功徳経』とか『温室洗浴衆僧経』もありますから、そのあとに飲むビールが功徳になるという偽経でも創作しますか(笑)。
http://www.biwako.ne.jp/~mido/soturon/dai2-2.htm
でも、入浴することは当時の社会にとって公衆衛生思想の普及だったのではないかと思います。(重源さんの事蹟は福利厚生事業ですね)
http://www.y-shoko.com/tokujisk/tokujit/kankou/kisimi/kisimi.htm
諸仏供養ということが言われますね。
『三誓偈』でも三番目に諸仏供養を誓っていますから、重要なことなんでしょう。
>投資の対象は①寺院②公園③薬④舟⑤橋⑥井戸⑦トイレです。
ということですが、諸仏供養の場合、どの投資をすればいいのでしょうか。
諸仏とは誰のことか、ということもありますが。
>寺院は決して私有物ではない。
佐高信は「会社は誰のものか」「日本は誰のものか」と問うていますが、寺は誰のものかということを考えていくべきですよね。
布施の対象を田んぼにたとえるのが、福田(ふくでん)思想ですね。司馬遼太郎さんの本名が福田(ふくだ)さんなのでそういうエッセイを書いておられました。
①敬田(きょうでん)というのが仏法僧。②恩田(おんでん)というのが先生や親。③悲田(ひでん)というのが貧窮者・病者。ここから、四天王寺は敬田院と悲田院という施設を持っていたわけですね。
『諸徳福田経』というのがあります。そこでは、投資の対象は①寺院②公園③薬④舟⑤橋⑥井戸⑦トイレです。こういうお経があるから、空海さんや空也さんの掘った井戸とか、行基さんの作ったため池とか堤などがあるんですね。
また最澄さんの『山家学生式』には
http://www.biwa.ne.jp/~namu007/txt/txd/018.htm
共国講師。一任之内。毎年安居法服施料。即便収納当国官舎。国司郡司。相対検校。将用国裏。修池修溝。耕荒理崩。造橋造船。殖樹殖種。蒔麻蒔草。穿井引水。利国利人。講経修心。不用農商。
とあります。僧が、講師料としてもらう春秋のボーナスを返還して池や溝を修理し、橋をかけ渡船を作り、樹を植え井戸を掘るのに使ってもらおやないか、と提案してはります。インフラ整備ですね。
そして佐伯祐正さんは『宗教と社会事業』(1931)で
>寺院は決して私有物ではない。それが公有的存在である意味を出来るだけはっきりせしむべきである。この意味から住職は遊戯的気分、優先的厚顔さをもって寺院を独占することは許されない。
と言われました。お坊さんにももっと経典や仏教者の著書を読んで欲しいですね。
私としてはこれからも人権・社会・格差・貧困・差別・障害とかについてグダグダと同じことを書いていくつもりですので、よろしくお願いします。
さて、人はあやまちを犯す生き物なんでしょうね。んで、そのあやまちをなかなか認める、受け止めることができない。あるいは、そのことを自他ともに「責める」という形で処理する。
自分にもこの「サディスティックな欲望」が余りあるほど持ってます。しかし、そういう行き方ではない道を探りたいなと常々思います。
今年もよろしくお願いします。
私の偏見ですが、ジェンダーという言葉を使われると、何だか一歩引いてしまいます。
ジェンダーという概念は重要なことはわかっていますが、あまり言われると逆差別ではないかと感じる人がいまして。
で、植木氏の本ですが、読んでいないのにあれこれいうのはおかしいですが、プレビューの「あやたすく」という人の
「仏典には「時代の制約」があるのだから、「女性差別」や「身障者差別」の記載があるのは仕方がないのです」
「間違った記載が仏典にあったら、「これは間違い」と言えばいいのです」
という意見に賛成です。
親鸞の和讃に「生盲闡提」という言葉を河田光夫氏を批判されていましたが、その通りであって、解釈改憲みたいなことはすべきではないと思います。
>『感身学正記』や『文殊師利般涅槃経』もパラパラめくっていまして。
勉強されてますね。
三経義疏が聖徳太子の作ではなく、中国で作られたものだとすると、花山信勝氏らの今までの研究はどうなるのでしょうか。
そのひとつ。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4816604065.html
この本には、感銘を受けました。女性差別表現があるから、それを単に取り除けばいいという発想ではなく、逆に聖書には女性差別思想なんかないんだという護教論でもない真摯な取り組み。
こういうのを仏教でもやって欲しいと思います。
通史として植木雅俊さんという人が仏教における男女論を書かれていますが。
http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%94%B7%E5%A5%B3%E8%A6%B3%E2%80%95%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E3%81%AB%E8%87%B3%E3%82%8B%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%B9%B3%E7%AD%89%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%A4%8D%E6%9C%A8-%E9%9B%85%E4%BF%8A/dp/customer-reviews/4000246224/ref=cm_cr_dp_all_helpful?ie=UTF8&customer-reviews.sort%5Fby=-SubmissionDate&coliid=&showViewpoints=1&customer-reviews.start=1&colid=#customerReviews
この著者、最後は法華経が男女平等思想の白眉という、いささか我田引水気味な結論を展開してがっくり。またこの本をレヴューで絶賛している人が他の本を批評していなかったりしてどうも不自然。
さて、仏教の社会事業の勉強会を始めたのですが。四箇院を調べるために、聖徳太子の書いたとされる『三経義疏』に眼を通す必要があり(これは太子の著書かどうか不明ですが)、さらに勝鬘経、維摩経にも該当箇所を調べるはめ(?)に。
叡尊さんの『感身学正記』や『文殊師利般涅槃経』もパラパラめくっていまして。きちんと原書に当たるという作業をめんどうなので今までやってなかったので、福祉という視点から、きちっと仏教経典にじかに触れる機会が与えられたことに感謝しております。
それと、「下類」とされる職業があげられていますが、こうした職業が「下類」だというよりも、「下類」とされている人たちがいるという指摘のほうが重要だと思います。
これらの人たちは見えない存在ですから。
見えない存在が見えてくる、そこからたとえば女性が仏になるには、という問題提起がなされてくるわけでしょう。
>そもそも「仏に成りたい」と思ってない一般の人にとって、お経にそういうことが書かれていたってまったくどうでもいいことではないでしょうか。
「仏になりたい」とか「救われたい」と思わない人にとって宗教全般は必要とされません。
だけど、今は病気ではないから医学はどうでもいいことだ、とは言えないでしょう。
宗教も同じだと思います。
唯信抄文意の
>「屠」はよろずの生きたるものを殺しほふるもの、これは猟師というものなり。「沽」はよろずのものを売り買うものなり、これは商人なり。是等を「下類」というなり。かようのあしき人・猟師・さまざまの者は、みな石・瓦・礫の如くなる我等なり。
を読んで、今、猟師(漁師)さんやお商売をやっている人に対してストレートに「下類」というような言葉をイメージする人ってそうそういないと思います。同様にお商売人さんが、自分を下類だなんて思ってないでしょう。
まあ、私は猟師でもないのに散弾銃(あるいは拳銃)を持っている人に対しては「殺生を趣味(あるいは生業)にする人」と偏見を抱いてますが。現在、ある人々(職業人)に対して偏見を持つのは、人それぞれの感覚によりけりだと思います。
またかつて仏教における女性差別ということで、いろんな本を読み考えましたが。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/fl-kokorojidai/8gatu2.htm
そもそも「仏に成りたい」と思ってない一般の人にとって、お経にそういうことが書かれていたってまったくどうでもいいことではないでしょうか。仏教教団内部では大問題であっても。
まあ、私が聞いた話しでは、大谷派教団には「変成寺族」という言葉もあって(笑)。在家出身者は、お寺の人と婚姻関係を結んで、寺族にならなけりゃ一人前の教団人として扱われないと。
ま、でもそんなの関係ねぇ~~そんなの関係ねぇ~
そんなの、、、
たしかに差別意識ですね。
ただ、AAの人の場合はそこにとどまってはいないと思います。
「同じ見つけ」してますから。
AAの人の中には野宿していた人、刑務所に入っていた人もいますし。
>反撃してこないから、ホームレスを襲ったと少年たちは言いますね。当事者運動がないというのが、ホームレスです。
犯罪加害者の家族も反撃する人はあまりいないだろうし、当事者運動もたぶんないでしょうね。
東野圭吾の「加害者の家族を差別しろ」という暴言が載った「中央公論」は回収されていないと思います。
反撃してこない人を攻撃するのは一種の弱い者いじめで、おまけに問題にもされません。
しわよせが最後に来るのが反撃しない人たちになんでしょう。
自分はああいうのじゃないから、アル中じゃない、と。これは、差別意識ですね。私は、ホームレスの人が自分を乞食だと言われるのを何度か耳にして「ドキッ」としたことがありますが。
否定的な表現をするときに「まるで○○のようだ」というのが、典型的な差別表現だと言われます。
浄土教の根本聖典のひとつ、観経の中にも大臣が「そんなことをするのは、チャンダーラの所業だ」とアジャセ王を諌めるシーンがありますね。
私も、ホームレスの人々に対して市民が差別意識をむき出しにされるのを見て「まるで犯罪者扱いやな」なんてことを思ったりしますが。
犯罪者にも(あるいは暴力団員にも)基本的人権がある、、、という意識はなかなか持ちにくいということがあります。そんな奴らを何故擁護する必要があるのか。何故支援するのか。
親鸞という人は、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなりという言葉を残していますね。また瓦礫変成金ということ。いし・かわら・つぶてをよく黄金に成したもうと。自分をいし・かわら・つぶてだなんて思う人はしかしほとんどいないんじゃないか。
まあ昨今のニュースを見ていてしかしこの社会の一員であることは、そんなに道徳的で倫理的であるのだろうかと思いますね。公務員さんの不祥事を見てて、盗っ人を公務員として雇ってるんかいなと。
さて話しを戻して。ホームレスの人々の話しを聞いていると、幼いときに両親が亡くなっていたり、離婚していたり、精神障害があったり、知的障害があったりと、人生の初めの方でハンディを背負っていることをいくつも知りました。
あー、この世に神も仏もないものか、、、とため息が出ます。人は「なまけもの」だからホームレスになり、「自業自得」でホームレスになり、好きでやってるのだからほっといたらよいと言い、迷惑だからどっかよそへ行って欲しいと願い、子どもたちは石を投げ、ゴミだからと言ってときに殺したりするんですね。踏んだり蹴ったり。
うーん。現在、この地区は地区だから燃やしてしまえと言って放火する人っているんでしょうか。障がい者だからといって、街を車椅子で移動している人が刺されることってあるんでしょうか。チマチョゴリを着ているからといって、カミソリで切られるという報道がなされることは、ときにありますが。
在日の人々は、総連や民団というグループがあったり、被差別の人々は解放同盟があったりと団結し抗議する団体があるんですが。反撃してこないから、ホームレスを襲ったと少年たちは言いますね。
当事者運動がないというのが、ホームレスです。
この人々は、市民社会に再参加することによって人権を回復するのか。しかし、支えがないことには再参加しえないのではないか、、、
ホームレスの人が例えば「わしは死んでも生活保護はもらわない」というのはどういうことでしょうか。彼は国民としての権利うんぬんよりも、自分の信念を優先させてるように思います。
「わしはわしで生きてるんや。お上の世話になんかなるものか」というのは、変成市民という論理を拒否しているように思えます。そんな社会なら仲間に入れてもらわなくてケッコウだ、と。
ま、確かにここは回帰したくなるような社会ではないように思えます。
時には遠方の方がインターネットで調べて来られることもあります。
そういうつながりがあるというのはすごいなと、いつも感心しています。
普段のつき合いがあるのか、AAだけなのかは知りませんが、週に1回でもそういう場があるというのはいいですね。
「ちらくれん」というのがあって、そこはピアズという介護支援センターをしていて、ここには障害者などの当事者、その家族らがいつも集まっているそうです。
http://www17.ocn.ne.jp/~raku.hp/peers/peer.html
寺も昔は門徒さんがグチを聞いてもらう場所だったんでしょうけど。
「希望の家」「出会いの家」「ふるさとの家」「旅路の里」「こどもの里」、、、
やっぱり、「存在の家郷」ということが意識されてるわけですね。で、3ヶ月ほど前の、私たちの集まりで取り上げたテーマ「ギャンブル依存」。
酒やギャンブルで家族にこれ以上迷惑かけてはいけない。しかし、釜ヶ崎はすでに家族も故郷も捨てた人たち。これほど強い者はない(笑)。
どうせわしらは、、、と自暴自棄におちいりやすいんですね。また、生保受給でせっかく安定した生活を取り戻したのに、金の貸し借りでまた人間関係が悪化する、、、
では、酒は適量に。ギャンブルは適当に。パチンコは数分で2~3万円が消える。なら、やりたければ競馬や宝くじにしといたらという結論に大笑いしました。
予算の無い自治体でこういう事業があります。
http://www.h6.dion.ne.jp/~gakuhoku/jihyou05.3.html#309
面白いですね。また、クリスマスにNEWS23でこんな番組がやっていました。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20071226
北九州市の「八幡生活と健康を守る会」の試みも、お寺の逮夜まいりのようですね。お坊さんはウカウカしていられないというか。逮夜まいりの意義がもう少し見直されてもいいのじゃないでしょうか。