三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

インド仏教と日本仏教(3)

2014年12月29日 | 仏教

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』に、東日本大震災によって与えられた影響を4つ取り上げてある中で、2番目「ほとけ」とは何か、正木晃氏は3つあげている。
しかし、正木晃氏の説明を読むと、5つに分けたほうがいいと思う。

①悟りを開いた如来(釈尊、阿弥陀仏、観音菩薩)
②死者
③遺体
④死者の霊魂
⑤仏の力で成仏した霊魂

東日本大震災から明らかになったことは、僧侶に求められたことの第一は死者供養、さらには「鎮魂」と「供養」と「回向」だったと、正木晃氏は言う。

鈴木隆泰『葬式仏教正当論』に、日本人の死者観念についてこのように説明されている。
古来、日本人は死者や祟り神の鎮魂に大きな畏れと関心を抱いてきた。
死者の魂には死穢が付着する。

死穢は死者の魂を蝕み、生者に危害を加える悪霊・祟り神へと変異させます。また、死者の魂には生前の個性が反映されるため、怨みを抱いて死んだ人の魂は、よりいっそう、悪霊になりやすいと考えられました。


死に際が問題なわけで、浄土宗の聖光(『口伝鈔』に書かれている三つの髻の人)は『念仏名義集』で、臨終がよくないと三悪趣に墜ちるのであって、臨終がどんな様子でもみな浄土へ往生できると主張する一派があるが、明らかな誤りだと書いてると、正木晃氏は紹介している。

魂にはどうやっても死穢が付着してしまうから、怨みを抱いて死んだ人の魂でなくても悪霊・祟り神へと変異する。
死者の魂が祟り神へと変異するのを止めるためにはどうしたらいいか。

そうです。死者の魂をきちんと祀ればよいのです。死者の魂をきちんと祀れば、浄化されて祖先神(ご先祖さま)となり、祟るどころか、かえって子孫を守護してくれるようになります。


鈴木隆泰氏はこう言うが、柳田国男は先祖神も災いをもたらすことがあると書いていて、そもそも苦しみをなくすことは不可能だから、いくら先祖祀りをしようと災いは起きてしまうわけで、いくら霊をきちんと祀ったつもりでも、これでよしということにはならないはずです。

東日本大震災に話は戻って、災害で亡くなった人は非業の死であり、自分の死を納得していない、霊魂が迷っていると私たちは考える。
東北地方、とりわけ北東北に生まれ育った人は霊魂の存在を疑わない傾向があり、霊魂があるのは当たり前、幽霊が出るのも当たり前という雰囲気がある。
お化け、妖怪とは神のことであり、日本の神は人々から崇められていないと、ぐれて不良化し、その果てがお化けであり、妖怪である。
幽霊は、何らかの理由で成仏できず、この世にとどまったままの人間の亡魂のこと。

もっとも、浅野誠氏は、幽霊を見せているのはサバイバーズ・ギルト(自分が生き残ったことを後ろめたく思う心理、自責の念だ)と説明しているそうで、東日本大震災の遺族も身近な人の死を受け入れることができないから幽霊を見る。

そして正木晃氏は、幽霊を成仏させる必要性を説く。
迷っている霊魂を僧侶が成仏させることによって、遺族は家族の死を受け入れるようになる。

ところが小谷みどり氏によると、「鎮魂」はマイナスの極に沈んでいる死者の霊魂をプラスマイナスゼロにすること、「供養」と「回向」はプラスマイナスゼロのものをさらにプラスにすることである。
マイナスをプラスマイナスゼロに引き上げるのはとてつもない力量(「仏力」や「定力」)が必要だが、鎮魂ができる僧侶は稀にしかいないと、正木晃氏は問題を提起しているわけです。

この正木晃説は日本人の宗教観としてはもっともな気もするが、浄土真宗が盛んな西日本だったら、幽霊云々ということは気にしないだろうし、震災による死の受け止め方は違ってくる気がします。

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10 コメント

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Unknown (万年中年)
2018-01-05 21:08:15
 20年ほど昔、キリスト教の学校の図書館で読んだこの本は興味深かったです。

 http://urx.mobi/HRh3

 かつてこの国に生きた人々は、どのように死を、そして死後をおそれたのか。
 飢えに苦しみ、病に苦しんだ民衆はどのように病に対処し、祈りを捧げたのだろうか。

 宗派がからむ本には曖昧な書き方しかしてないけど、次の本も面白かった。

 http://urx.mobi/HRh7

 自分が生き残るためには、間引きもしたし、生きながら老いた人たちを捨てに行ったりもした。河原は死体でいっぱい。余りにも忍びないので、庶民の遺体に経を手向けるお坊さんたちも出現。さらに荼毘にふすこともしだす。
 京都では時衆のお坊さんが火葬場を経営。奈良では真言律のお坊さんたちが活躍。禅宗は、葬儀の作法を整える。
 法華や真宗は、葬儀には出遅れてる感があります。生きた人がまず救われるということに重きをおいたようですが。

 NHKの番組。
http://urx.mobi/HRhO

やっぱり考えさせられます。日航機墜落で息子さんを亡くしたお母さんと、東日本大震災で息子さんを亡くしたお母さんの出会い。
 後悔の念を持ち続けるお母さんは「お化けでもいいから会いたい」というけど会えない。でも、私はこの名取市閖上中学校で、幽霊らしきものを見ました。はじめは見学に来た一行だと思っていたのですが、廊下は行きどまりの教室でした。そして後から、引率した何人かから、同じような人たちを見たと言われました。あれは何だったのだろう。
 
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不思議な話 ()
2018-01-07 18:09:52
何かで読んだんですが、家族が死んだ後、死者を見た、もしくはいるのを感じた人は6割だそうです。
東日本大震災でもそういう体験談は少なくないわけで、神秘体験をした人は決して珍しくないようです。
そうした体験をどのように意味づけしていくか、そこが大切だと思います。
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科学的態度 (万年中年)
2018-01-08 07:30:26
 いわゆる「虫の知らせ」というのは、明治大の文化人類学者(?)蛭川先生によれば「危機幻像」というそうです。また、いわゆる「自縛霊」が出るというのは、「反復幻像」と超心理学でいうそうです。
 http://urx2.nu/HSIc
 これいいですね。ある人は、死んだ人の霊が必ずあるといい、ある人はそんなの非科学的、迷信だという。ここに議論の余地はない。でも、それは①まったくの錯覚②偶然の一致③霊魂仮説④ESP仮説の可能性があると分析されます。(ちなみに私はESP仮説をとります。ESPだって超常現象ですからトンデモさんに分類されますが笑)
 10年以上前の青森県立保健大の研究に、「イタコ」さんがどのように遺族を癒すかという研究に取り組まれてた。TVでも紹介されたりしてましたけど。
 要点は、ふたつ。①イタコが呼びだした霊は遺族を責めず、世話になったことにお礼をいう②もし自分を供養したかったらこれこれこれと具体的な方法を述べる。
 これについて学者さんは、ブログ主さんも触れられた、「サバイバーズ・ギルト」。死んだ人に対して申し訳ないと思う気持ちをなだめ、日々おこなえる具体的な操作を与えて遺族に癒しの効果があると結論づけられてました。どのイタコさんもこのような回答をするのかどうかわたしは疑問ですが。
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信じる者は苦しみそう ()
2018-01-08 17:36:49
心理学者の宮城音弥さんもESP仮説だったと思います。
私は①と②です。
『不思議現象 なぜ信じるのか: こころの科学入門』の説明で納得できるからです。
石川幹人『超心理学 封印された超常現象の科学』を読んでも、これだけ実験してもはっきりした証拠が出てこないなら、超能力はないのと等しいのではないかと思います。
リンク先の例は番町皿屋敷なんかが出てくるので、信用度が落ちます。
本音を言うと、そういうのは信じたくないというのがあります。
もともとそういうのが好きですから、ハマるのが恐いというのが。

神秘体験を否定するわけではありません。
そういうことを体験しやすい体質の人がいることは事実です。
オウム真理教の信者だった中川智正さんは、いろんなモノが見えたり聞こえたりするそうです。
そんな能力があっても、少しも役に立たないそうですが。
私は霊媒能力が1mgもないようで、寂しくはありますが、幸いなのかもしれません。
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有病息災 (万年中年)
2018-01-08 18:45:05
 石川先生と蛭川先生は明治大で仲良しですね。科学の方法というものに、再現性がありますが、虫の知らせを証明するには、身内が死に瀕するという状況を作り出して実験するわけにもいかず、この条件にのせにくいですね。 
 
 私は去年頃から耳鳴りがするのですが、(蝉が鳴いてるような音)自律神経失調症のひとに多いそうです。で、幻聴のような感じは厚労省のHPによると①統合失調症②PTSD③薬物 などの原因によるものだとあります。
 
 法然上人の三昧発得も、この瞑想によるものというより、実存問題の度を越したつきつめやら、世情不安や念佛運動への弾圧なんかも関係しているのだと思います。
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FAKE ()
2018-01-09 17:52:34
森達也『職業欄はエスパー』を読んだ後、石川さんの本を読み、『職業欄はエスパー』はちょっとなあと思いました。
自己申告を事実のように書いているんですから。

中川智正さんの幻聴、幻覚は巫病だそうですが、巫病は統合失調症に含まれるんですかね。
だったらシャーマンはどうなんでしょうか。

三昧発得や浄土の観相は、睡眠不足、極度の疲労、単純な作業の繰り返しといったことが要因ではないかと思います。

オウム真理教の信者は神秘体験でハマったわけですが、オウムと仏教の神秘体験はどこがどう違うのか、そこらを誰か説明してくれないでしょうか。
返信する
三昧発得はありまぁす! (万年中年)
2018-01-10 12:46:42
 私も少し浄土宗の別時念佛というのをやってみたことがあるのです。「なむあみだぶなむあみだぶ」と唱えていくと「ぶなむあみだ」「だぶなむあみ」「みだぶなむ」、、、とか語順がおかしくなり、しまいに何を言ってるかわからなくなり、足は痺れ、頭がこんぐらがってきた。。。ということがありました。
 で、その先うまくいけば、いろんなものが見えてくるそうですが。それはしかし、禅のいう「魔境」と言われそうですね。。。

 法然上人の弟子の弁長さんの『徹選択集』に見えるのが、かの有名な法然上人の回心のことば。

 悲しいことだなあ。いったいどうしたらいいんだろう。私のようなものは戒・定・慧の三つの学の器にない。このほかに私にぴったりの教えはないものか。。。。

 で、お経の図書館に籠ってたら、あら善導さまの書かれた一節にめぐりあってお浄土の教えに賭けてみよう。。。に至ったという。で、先のことばの前には「禅定においてひとつもこれを得ず」と言われてたんですよね。瞑想やってもちっともうまく行かん。。。

 ところが、法然自筆のものはない『三昧発得記』によれば、観無量寿経に記されたイメージ・トレーニングはあら不思議、みごとに成功ということで。それは建久9年(1198)から元久3年(1206)、上人が66歳あたりから74歳のあいだの記録。で、途中で風邪ひいて肺炎こじらせたり。
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004779849.pdf?id=ART0007517524

 >大橋 (1971)に よ れ ば、 法然 教団 に 対す る危 機 が 身近 に 迫 っ て き た の は 建 久5 年 (1194) こ ろ か らで あ っ た が 、い ま だ 念 仏の 禁圧 と い う形 に は な っ て い な か っ た 。 それ が 正 治 2年 (1200) に な る と、 そ の 年の 5 月12日に 鎌 倉幕 府 が 専修 念仏 の 禁 止 令 を出 した の で あ る 。 お そ ら くその こ ろか ら法 然 の 危機意 識 は 急 激 に 高 ま り、 そ して その なか で 、建 仁 2年 (1202) の 1 月 5 日に 初 め て 勢至 菩 薩 の 顔 が 出現 す る。法 然 は こ の こ と を 、法 然の 唱 えて い る念 仏 法門 の正 し さ を証 明 す る た め に 勢至 菩 薩が 念 仏者 の た め に 1 丈 6 尺 の 大き さの 顔 を示 現 し た とい うふ うに 述べ て い る 。
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奇々怪々 ()
2018-01-10 16:51:15
名島潤慈さんはこのように書いています。
>臨床場面において言葉によるカウンセリングではなくてイメージ面接や、水のイメージを利用したリラクセーションを行っていると、どのクライエントも容易にイメージを思い浮かべることができる。中には目を開けていても、そこに存在しないものをありありと幻視できるクライエントもいる。

このイメージというものは、禅における魔境とは違うんでしょうか。
夢は目覚めたら忘れますけど、瞑想中の幻想(?)ははっきり記憶に残っている点が夢と違うそうです。
カウンセリング中のイメージも白日夢とは違うんでしょうね。

法然は普通にしているときでも浄土や阿弥陀仏を観相できるようになったとあります。
そんなだったら、日常生活をすごすのに不自由だと思いますが、どうなんでしょうね。
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大魔王ベルゼブブ (万年中年)
2018-01-11 08:25:26
 つらつら日暮しさんによると
「坐禅や止観行などを進めていると現れることがある様々な増上慢や、修行の志の減衰、或いは幻覚などを総称して魔境という。天台宗の天台智顗が著した止観行に関する著作や、臨済宗の夢窓疎石『夢中問答』の第18問答~23問答に、この詳細が説かれている。」そうです。
 ということで『夢中問答』超現代語訳。これ最後のほう、ちょっと身につまされます(笑
 http://ur2.link/HXRP

 それよりもブログ主さんの宗派では、親鸞著『教行信証・行巻』の次の一節はどう教えられているのでしょうか?

>ある人が、 臨終に仏・菩薩が光明を放って、 蓮の花の台座を持って現れるのを見たてまつり、 清らかな音楽が鳴り響き、 すぐれた香りが漂って、 来迎にあずかって往生する、 というようなことは、 みな悪魔のしわざである という。 この説はどうであろうか。
 答えていう。 首楞厳経によって三昧を修める場合には、 五陰魔が現れ、 修行をさまたげることがある。大乗起信論によって三昧を修める場合には、天魔が現れ、 修行をさまたげることがある。 摩訶止観 によって三昧を修める場合には、 時媚鬼が現れ、 修行をさまたげることがある。 これらはどれも、 禅定を修める人が自力によるから、 元来悪魔のさまたげを受けるような因があり、 それが三昧を修めることを縁として現れ出たものである。 もし、 これを明らかに見きわめて、 それぞれが制するなら、 悪魔のさまたげを除くことができる。 もし、 自らが聖者になったと思いあがるなら、 みな悪魔のさまたげを受けるのである。
 いま修めるところの念仏三昧は仏力をたのむのである。 それはちょうど、 帝王の近くにいるとだれも害を加えるものがないように、 悪魔のさまたげがない。

 (浄土教が拠っているお経の他に基づく修行には「魔」があらわれるけど、それは「自力」の修行だからなんだ。でも、私たちは「他力(佛力)」に依っているから「魔」なんか邪魔されない。

 実に「贔屓の引き倒し」笑
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どうしてでしょう ()
2018-01-11 17:29:20
『夢中問答』によるならば、坐禅しているときの魔境は外魔なんですかね。

ある先生は臨終来迎は一種の臨死体験だと言われていました。
それにしても、化身土巻ならともかく、行巻に引用しているのはどうしてでしょう。
臨終にお迎えが来るのは19願ですからね。
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