三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ジョシュア・オッペンハイマー『ルック・オブ・サイレンス』(1)

2015年09月21日 | 映画

ジョシュア・オッペンハイマー『ルック・オブ・サイレンス』は衝撃的でした。
1965年にインドネシアで起きた大虐殺の被害者遺族が被害者にインタビューするドキュメンタリーです。
この事件についての説明をまとめます。

9月30日、インドネシアでスカルノ大統領の親衛隊の一部が、陸軍トップの6人将軍を誘拐・殺害し、革命評議会を設立したというクーデター未遂事件が起きた。
当時、インドネシア共産党は350万人もの党員と、傘下に多くの大衆団体をかかえる政治勢力だったが、それを快く思っていなかった陸軍は、この事件を口実に共産党員の粛清に乗り出した。
後にインドネシア大統領になったスハルトらは、背後で事件を操っていたのは共産党だとし、西側諸国の支援も得て、1965~66年にインドネシア各地で100万~200万人を「共産党関係者」として虐殺した。
それに対して、日本や西側諸国は何ら批判の声を上げることなく口をつぐんだ。
共産党は合法政党だったので、国軍は前面に出ず、イスラーム勢力やならず者など反共の民間勢力を扇動し、彼らに武器を渡して殺害させた。
1973年、この一連の虐殺の中で共産主義者の命を奪ったものに対しては、法的制裁が課されないことが検事総長によって正式に決定された。

ナチスは500万~600万人を、カンボジアでは4年たらずの間に約180万人、ルワンダでは100日間に約100万人が虐殺されました。
中南米の親米独裁政権でもアメリカで訓練された軍隊や警察が万単位で国民を殺しています。

それらと比べても、インドネシアでの100万人以上という数字は半端じゃないです。
私はインドネシアでこんなことがあったとは知らなかったので、前作の『アクト・オブ・キリング』は虚構の事件をドキュメンタリーっぽく描くモキュメンタリーかと思ったほどです。

西側諸国の支援ということですが、1667年のアメリカのテレビニュースで、インドネシアの「共産主義者」が収容所に入れられて粛清されたこと、グッドイヤー社の工場では収容所の囚人が働いている、餓死するものもいると、ナレーターがさも正義が行われたことのように語る場面が『ルック・オブ・サイレンス』にありました。
ナチの収容所でユダヤ人が餓死したり、スターリンが粛清することは非難しても、親米政権が「共産主義者」に何をしようとOKということです。

『ルック・オブ・サイレンス』は、2003年にジョシュア・オッペンハイマー監督が撮影した、加害者たちへのインタビュー映像を見たアディ・ルクンさん(44歳)、加害者たちに事件の話を聞くという内容です。

兄のラムリが殺されて3年後に生まれたアディさんは8人兄弟の末子で、眼鏡技師として働き、妻と2人の子と暮らしています。
ジョシュア・オッペンハイマー監督はアディさんを2003年から知っており、2012年に『アクト・オブ・キリング』の編集が終わったころ、ジョシュア・オッペンハイマー監督に再会したアディさんは、兄を殺した加害者たちに会いに行きたいと提案します。
アディさんが兄を殺した人たちを訪れてインタビューするのが2012年、『アクト・オブ・キリング』が公開される前です。

なぜ衝撃的なのかというと、彼らがカメラの前で嬉々として誇らしげに語るからです。
しかも、どのように殺したのか、首を切る、ペニスを切る、腹をかっさばくというふうに。
イノン・シアとアミール・ハサンはカメラの前で、楽しそうに実演しながら具体的に説明します。

32人の「共産主義者」を殺したと自慢そうに話をするアミール・ハサンは、そのことを本にした、自分で絵も描いた、子孫にこのことを伝えたいから、と説明します。
国のためにしたことだからです。

  本を手にしているアミール・ハサン

小学校でも教師が、「共産主義者」は将軍たちを拷問し、ほおを切り、眼玉をくりぬいた、そういう残忍なことをしたと、子供たちに教えます。
なんだか育鵬社の歴史教科書みたいですが、そういうふうに子供たちに教えるぐらいですから、加害者が罪の意識を持たないのがわかります。
加害者たちは恵まれた生活を送っているのに、被害者の遺族は今も差別や脅しを受けています。

オッペンハイマー監督アディさんへのインタビューによると、撮影は危険だったそうです。

アディ 加害者やその関係者に会って撮影するときはいつも、2、3台の車を用意して別の場所に停め、何かあったら逃げられるようにしていました。


監督 イノン以外の加害者や加害者家族とアディが対峙するシーンを撮影するときは、アディの家族をいつでも逃げられるように空港に待機させ、いつでもチケットを買えるようスタッフが発券カウンターの最前列で待っていました。インドネシア人のスタッフは危険が及ぶ可能性があったので外れてもらい、デンマーク人のスタッフだけで撮影しました。私はアメリカ国籍ですがデンマークに住んでいますから。また、拘束された場合に備え、デンマークとアメリカ両国の大使館から助けがくるような態勢をとりました。万が一拘束されても身元が明かされないよう、アディは撮影に身分証を持参しないようにしました。私の携帯電話から大使館とデンマークのオフィスの番号以外を削除し、逃走車も用意しました。そのぐらい注意していました。


アディさんがアミール・ハサンに会いに行ったとき、アミール・ハサンは死んでいたので、妻と息子2人にインタビューをし、アミール・ハサンが本を片手に得々と説明する映像を見せます。

アディ 撮影中に彼女の息子たちが騒ぎだしました。そのうちのひとりが携帯電話でどこかに連絡したので、警察か仲間を呼んだものと判断し、車に飛び乗って逃げました。そしてすぐに、もう1台の車に連絡して私の子供を避難させました。

クレジットでは、名前のところにアノニマス(無名)となっている人が多く、ドライバーは全員アノニマスです。
報復を怖れたからです。
アディさんや両親は、加害者たちと同じ村に暮らしているとのことなので、迫害を受けないのかと心配になりました。

アディ もちろん危険です。映画の完成と同時に家族全員を連れて、どこかは言えませんが、某所に移住しました。

といっても、インドネシア国内に住んでいるんでしょうから、当局から目をつけられているのではないかと気になります。

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