三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

裁判員と死刑(1)

2022年02月23日 | 死刑

佐藤舞「世論という神話」は、2014年の内閣府世論調査に内容を対応させて行なった調査について書かれています。
https://www.deathpenaltyproject.org/wp-content/uploads/2015/10/Public-Opinion-Myth-Japanese.pdf

死刑の存廃について、2択ではなく5段階で尋ねた。
「絶対にあった方が良い」27%
「どちらかといえばあった方が良い」46%
「どちらともいえない」20%
「どちらかといえば廃止すべきだ」6%
「絶対に廃止すべきだ」2%

全存置派のうちの71%が、政府主導の死刑廃止であれば政治政策として受け入れる(「政府の決めたことなら、不満だが仕方ない」)と回答している。
死刑制度の将来を誰が決定するべきかという問いに、内閣府世論調査世論にの結果によるべきだとする人が40%、決定権を専門家と国家機関に委任すべきだと考える人が40%だった。

では、裁判員として死刑判決を出すことになっても仕方ないと考えるのでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』に、死刑判決を起案する裁判官は、人が人を裁くことのいい知れない重責を背負い続けなければならないとあります。
死刑判決を起案する過程で精神に変調をきたす裁判官もいる。

元裁判官「死刑を宣告する日は朝から極度に神経が張り詰め、法廷に入るドアノブに手をかけた時は、できることなら逃げ出しもしたかった」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54426

原田國男さんも死刑判決を出す苦悩を『裁判の非情と人情』に書いています。

死刑の言渡しは、正当な刑罰の適用であって、国家による殺人などではないということはよくわかるが、やはり、心情としては、殺人そのものであり、法律上許されるとはいっても、殺害行為に違いはない。
目の前にいる被告人の、首に脈打つ血管を絞めることになるのかと思うと、気持ちが重くなるのも事実である。言渡しの前の晩は、よく眠れないことがある。(略)
裁判官でもこれほどプレッシャーを感じる重大な判断に、裁判員がかかわるのであるから、その精神的負担は大変なものである。


裁判員裁判では、全員一致が得られなかった場合、評決は多数決です。
無期刑にすべきだと思っても、死刑に賛成の人が多数を占めることもあるでしょう。
まして、冤罪かもしれない事件で死刑判決を下すことになった裁判員はどう思うのでしょうか。

そもそも裁判員制度が導入されたのはどうしてでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』によるとこういう理由からです。
矢口洪一が最高裁長官に就任する2年前の1983年に免田事件が、1984年には財田川事件、松山事件、在任中の1989年には島田事件が再審無罪になっている。

泉徳治元最高裁判事「陪審制度導入は矢口(洪一)さんが言い出したことなのです。これは独特の政治感覚ですね。死刑判決が再審で無罪になった事件が四件もあり、職業裁判官は何をやっているんだという話になりましたね。これが陪審裁判だと、国民が判断したことになるので、仮に再審で無罪となっても、批判の矛先が裁判官ではなく陪審員になる、裁判官は批判をかわすことができる、という政治感覚です」

誤判による非難を回避する仕組みとして陪審制を構想したのである。
つまり、無実の被告に死刑判決を下すことがあると、最高裁長官が認めているのです。

東京高裁の判事を退職して弁護士をしている原田國男さんは、裁判官時代には気づかなかった感覚を書いています。

その証拠や法廷での被告人の態度から、裁判官が無実を実感することは、少ないかまれである。これに対して、弁護人になり、無罪ないし冤罪を主張する被告人に何度も接見していると、この人は本当に無実なのだという確信がもてる。(略)この感覚は、裁判官時代には、得られないものであった。(略)著名な冤罪事件で再審無罪を勝ち取った弁護人も、やはり同じような感想を述べている。最初の接見で無実を確信したという例も少なくない。だからこそ、手弁当で膨大な時間をかけても、再審開始に至るまで打ち込むことができるのである。単なる売名のためにこれほどの負担を背負い込む人はいまい。無実なのに牢につながれている被告人を何とか救い出したいという気持ちがなせる業である。


では、裁判員は正しい判断を下せるのでしょうか。
原田國男さんによると、そうでもないようです。
嘘の見抜かなければ、とか、被告人に騙されてはならないという思いが強い裁判官は、素直に証拠を見ることができない。
無実方向の証拠でも、有罪という観点から何とか説明しようとする。

裁判官としての仕事に対する、にがい反省も生じた。それは、身柄に対する感覚である。現在、人質司法が問題になっている。犯人として逮捕され、否認をすると、勾留され、起訴され、保釈がなされず、長期にわたり拘束された挙げ句、実刑になるという悪い連鎖が起こっている。被告人が無実であっても、この負担に耐えられず、自白をしてしまうこともある。無実なら自白などするはずはないという見方がいかに誤っているかは、足利事件や氷見事件からも明らかである。
しかし、裁判官時代は、罪証隠滅や逃亡のおそれがあると考えがちであった。経験上、そうした例も知っているので消極的に考えやすい。だが、被告人と接見を繰り返していると、この不当に長い身柄拘束が本当に許されないものだと実感する。まさに、刑の先取りなのである。この実感は、裁判官はもとより、身柄を直接扱う検察官にも薄いのではないか? 書類上の出来事としか感じていないのではあるまいか?
この二つの実感(無実と身柄)をもつことは、良い刑事裁判官になるために必要である。こうして考えると、ゆくゆくは、法曹一元(裁判官はすべて弁護士経験者から選ぶ制度)が望ましいということになろう。

裁判員には「二つの実感」を持つことは難しいと思いました。

コメント
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