佐藤舞「世論という神話」は、2014年の内閣府世論調査に内容を対応させて行なった調査について書かれています。
https://www.deathpenaltyproject.org/wp-content/uploads/2015/10/Public-Opinion-Myth-Japanese.pdf
死刑の存廃について、2択ではなく5段階で尋ねた。
「絶対にあった方が良い」27%
「どちらかといえばあった方が良い」46%
「どちらともいえない」20%
「どちらかといえば廃止すべきだ」6%
「絶対に廃止すべきだ」2%
全存置派のうちの71%が、政府主導の死刑廃止であれば政治政策として受け入れる(「政府の決めたことなら、不満だが仕方ない」)と回答している。
死刑制度の将来を誰が決定するべきかという問いに、内閣府世論調査世論にの結果によるべきだとする人が40%、決定権を専門家と国家機関に委任すべきだと考える人が40%だった。
では、裁判員として死刑判決を出すことになっても仕方ないと考えるのでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』に、死刑判決を起案する裁判官は、人が人を裁くことのいい知れない重責を背負い続けなければならないとあります。
死刑判決を起案する過程で精神に変調をきたす裁判官もいる。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54426
原田國男さんも死刑判決を出す苦悩を『裁判の非情と人情』に書いています。
目の前にいる被告人の、首に脈打つ血管を絞めることになるのかと思うと、気持ちが重くなるのも事実である。言渡しの前の晩は、よく眠れないことがある。(略)
裁判官でもこれほどプレッシャーを感じる重大な判断に、裁判員がかかわるのであるから、その精神的負担は大変なものである。
裁判員裁判では、全員一致が得られなかった場合、評決は多数決です。
無期刑にすべきだと思っても、死刑に賛成の人が多数を占めることもあるでしょう。
まして、冤罪かもしれない事件で死刑判決を下すことになった裁判員はどう思うのでしょうか。
そもそも裁判員制度が導入されたのはどうしてでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』によるとこういう理由からです。
矢口洪一が最高裁長官に就任する2年前の1983年に免田事件が、1984年には財田川事件、松山事件、在任中の1989年には島田事件が再審無罪になっている。
誤判による非難を回避する仕組みとして陪審制を構想したのである。
つまり、無実の被告に死刑判決を下すことがあると、最高裁長官が認めているのです。
東京高裁の判事を退職して弁護士をしている原田國男さんは、裁判官時代には気づかなかった感覚を書いています。
では、裁判員は正しい判断を下せるのでしょうか。
原田國男さんによると、そうでもないようです。
嘘の見抜かなければ、とか、被告人に騙されてはならないという思いが強い裁判官は、素直に証拠を見ることができない。
無実方向の証拠でも、有罪という観点から何とか説明しようとする。
しかし、裁判官時代は、罪証隠滅や逃亡のおそれがあると考えがちであった。経験上、そうした例も知っているので消極的に考えやすい。だが、被告人と接見を繰り返していると、この不当に長い身柄拘束が本当に許されないものだと実感する。まさに、刑の先取りなのである。この実感は、裁判官はもとより、身柄を直接扱う検察官にも薄いのではないか? 書類上の出来事としか感じていないのではあるまいか?
この二つの実感(無実と身柄)をもつことは、良い刑事裁判官になるために必要である。こうして考えると、ゆくゆくは、法曹一元(裁判官はすべて弁護士経験者から選ぶ制度)が望ましいということになろう。
裁判員には「二つの実感」を持つことは難しいと思いました。