車で聞いていた桑田佳祐のCDから、突然、美輪明宏の「ヨイトマケの歌」(作詞・作曲 丸山明宏)の歌詞が聞こえてきた。
ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に暮れながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
歌は知っていたが、改めて聞いたとき、急にフロントガラスの風景がかすんで見えた。目にいっぱい涙が溢れてきた。
今はいっぱしになって、立派な家にも住み、贅沢な暮らしをさせていただいている自分。しかし、貧乏とまでは言わないまでも、風呂もない長屋暮らしのつつましい暮らしをしてきた少年時代を思い出したとき、歌詞と自分が重なって聞こえた。今思えば、親に迷惑もかけたのだろう。親は我慢しても、子どもには苦労をかけまいとしていたのだろうなと思った。
日にやけながら 汗を流して
男に混じって ツナを引き
天に向かって 声をあげて
力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
ある日、友だちが、新しい自転車を買ってもらった。当時は方向指示器のついたサイクリング車が流行っていたが、同級生でも裕福な家の子は、こぞって新しい自転車を買ってもらい、遠乗りをするのが遊びになった。俺もほしいな。と思ったが、高価な自転車をそう簡単に買ってくれなんて言えなかった。
でもあるとき、親父が知り合いの自転車屋で、中古のサイクリング車を買ってきてくれた。ドロップハンドルを普通のハンドルにかえた、足がやっと届くかどうかという、まあ、いまならレアものだろうが、自分がほしい自転車とはほど遠い自転車だった。子どもながらに不満もあったが、その時初めて贅沢は言えない自分を知った。
でも、親父の気持ちを考えたら、何とかしてやろうという気持ちが伝わり、子どもながらに不満もあったが、その時初めて贅沢は言えない自分を知った。でも、親父の気持ちを考えたら、何とかしてやろうという気持ちが伝わり、子どもながらに自分に納得するように言い聞かせた。
大学に入るとき、自分は教員に一日でも早くなって自立したいと思った。しかし、国立大学には落ち、日本一学費の高い私立大学に合格した。さすがに学費が高かったのだろう。学費の安い補欠で合格した私立大学に行ってくれと言われたが、どうしても小学校の先生になりたいと言った。しばらく考えていた親父が心配するなと言ってくれた。
親父は個人タクシーの運転手。少しでも稼げる深夜の仕事を続けた。大学入試の勉強をしている自分に、毎晩仕事の途中、吉野家の牛丼を差し入れてくれた。酒を飲むと「おれには学がないから」というのが口癖だった。親父は、若いときに福井から上京し、苦労しながら、おふくろと兄妹二人を育ててきた。
大学に入ると、回りには裕福な家庭で育ったお坊ちゃんやお嬢さんがたくさんいた。会話が弾まない。友だちなんかできるのかな。そんなことばかり考えていた。派手な遊びの話をする友だちがうらやましい。でも、勉強をしっかりしないと親に申し訳ない。一日も早く先生になって、親の期待に応えよう。大学は通過点だ。自分に言い聞かせるように大学時代を送った。
好きな女の子もいた。でも、付き合えなかった。生活が違いすぎるからだ。くやしかった。でも、今考えてみれば、そんなことを考えていた卑屈な自分がいたことがもっとくやしい。後悔しても、もうあの頃にはもどれないのだから。
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿
ヨイトマケの歌を聞いて、もう一つ感じた。今のお父さんやお母さんは自分の子どもを自分の背中で教えられるのだろうかと。もちろん私自身を含めてだが、満ち足りた暮らしの中で、子どもに苦労させないことが、本当によいことなのだろうか。美味しいものが山ほどあり、楽しいことがこんなにたくさんあって、今の子どもたちは本当に幸せなのだろうか。
「ヨイトマケの子ども」といじめ抜かれた子どもが、母ちゃんのはたらく姿見て、勉強するよと学校に戻る。今では、そんな親もいなければ、子どももいない。生活もない。貧しさがバネになって、がんばろうとしてきた自分たちが、子どもを甘やかして育ててしまったつけだろうか。
僕を励ましなぐさめた
母ちゃんの唄こそ 世界一
私たちの時代のものは、親を亡くすことが多い年代になってきている。年末になると喪中のはがきが多く届くようになった。自分も子育ての終盤を迎え、あの頃の親父やおふくろの苦労が身にしみてわかるようになってきた。「ヨイトマケの歌」、忘れてはいけない歌に聞こえた。美輪明宏が歌う「ヨイトマケの歌」を、深夜一人でもう一度聞いた。
子どものためなら エンヤコラ