三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

マイケル・ジョーンズ『レニングラード封鎖』

2014年02月02日 | 戦争

デイヴィッド ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』という、ドイツ軍によって封鎖されたレニングラードが舞台の小説がすごく面白くて、それでレニングラード攻防戦に興味を持ち、マイケル・ジョーンズ『レニングラード封鎖』を読みました。

レニングラードはドイツ軍によって1941年9月8日から1944年1月27日までの872日間封鎖され、当時、約300万人の人口のうち約100万人の市民が死亡した。
気温がマイナス40度に下がった1941年12月半ばから1942年3月半ばまでの三か月の餓死者は80万人を超すと推計されている。
レニングラードの人々はどのようにして生き延びたのか。

『レニングラード封鎖』を読みながら、災害時には人々は助け合うことを検証したレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を思い出した。
レベッカ・ソルニットは「災害時には二つの集団がある」と言う。
・利他主義と相互扶助の方向に向かう多数派
・冷酷さと私利優先がしばしば二次災害を引き起こす少数派
多数派は一般市民であり、少数派には権力者・エリート・メディアが含まれる。

レニングラードでも同じだった。
『レニングラード封鎖』によると、三者に分けられると思う。
・人間的価値を保ち続けようとした人たち
・生き延びようとして自己を見失った人たち
・私利私欲しか頭にない人たち

1942年1月と2月の公式死者は20万人。
1日に7000人、あるいは8000人が死亡している。
3月には赤痢が発生し、1日の死者数は2万~2万5000人に達したと推定される。
そういう状態の中でも、他人を助けたいという思いが、人々に生き延びようという気を起こさせた。

イリーナ・スクリパチョーワ

他人を助けることが生き残る鍵になった。

見ず知らずの人から援助を受けるといった、助け合いと犠牲の精神も現れた。
マカロニの配給の長い行列で、老婦人が小さい子供がいるエレーナ・コーチナに最後のマカロニを譲ってくれたり、体調を崩したエレーナ・コーチナの叔母に同僚が配給券を届けてくれた。

ダニール・グラーニン

他人を救った人たちは、自分自身を救った。芸術と文化がそれを助けた。

封鎖中でもいくつかの劇場とコンサートホールはずっと活動を続けており、飢えに苦しむ市民たちは展覧会やコンサートに出かけた。

もっとも、献身的行動ばかりではなく、生き延びるために醜い行動へ追い込まれた人たちもいた。

アナトリー・モルチャノフ

ほかの人たちと交際しなかった人はもたなかった。そしてわれわれは市内で多くの人がろくでなしになり、いつも他人の不幸から利益を引き出そうとしているのを目にした。

エレーナ・コーチナ

どんなことをしてでも自分の命を救うことを追求する人たちがいる。彼らは配給券を盗む。通行人の手からパンをひったくり、拳骨の雨の中でそれを食らう。子供をさらうことまでする。彼らは飢えと死の恐怖のために狂いながら市街をうろつく。毎日、数えきれない悲劇が起き、この都市の沈黙の中へと消えていく。


食べるために肉が切り取られた死体が少なくなかった。
組織された人食い団が活動していた。

ドミトリー・リハチョフ

肉を手に入れて売るために人を殺した悪党どもがいた。

封鎖中に少なくとも300名の市民がカニバリズム(人肉食)のかどで処刑され、1400名以上が同じ罪状で投獄された。

しかし、食糧がなかったわけではない。
1941年12月には、凍結したラドガ湖を通ってトラックが毎日食糧と補給品を運び込んでいた。
1942年2月10日ごろは、食糧の輸送量は1日3000トンに達している。
『卵をめぐる祖父の戦争』で描かれているように、市、党、軍隊の幹部には食糧や衣類などは十分にあったが、市民への配給は増えなかった。
一般市民よりも権力を持っている人がかえって怖いと『災害ユートピア』にあるが、レニングラードでも同じである。

そもそもドイツ軍にあっさりとレニングラードを封鎖されたのは、ソ連軍北西戦域軍総司令部総司令官ヴォロシーロフ元帥が無能だったからである。
1937~1938年の赤軍粛清では、5人の元帥のうち3人が銃殺、軍司令官16名のうち15名、軍団長67名のうち60名、師団長169名のうち136名が粛清され、軍隊に事実上指揮官がいなくなったのだが、粛清の中心にいたのがこのヴォロシーロフである。

春が近づき、雪の下のたくさんの死体や大量の排泄物が出てきて、伝染病の感染源となる恐れが生じたので、女性住民に道路清掃をするよう命令が出た。
衰弱して動けない人が逮捕されることもあった。
しかし、市民は自ら進んで清掃するようになり、集団作業は生き延びるという決意をもたらし、市民に連帯感、使命感が生まれた。

1942年の春から事態は好転するが、市の当局者は検閲を強化し、自分の日記に状況を素直に書いたことだけで、逮捕される人が続いた。

ドミトリー・リハチョフ

電気も水道も新聞もなかった時でさえ、当局はなおもわれわれを監視し続けていた。

当時のレニングラードの党指導者ジダーノフはスターリンの腰巾着で、戦後にジダーノフ批判といわれる文化人や知識人への抑圧をした人。

だからソ連はダメなんだと思うが、しかし考えてみると、封鎖下のレニングラードは世界の縮図ではないだろうか。
世界中にはレニングラードのように戦争や飢餓で苦しむ人が大勢いるが、それは政治の無策ためだし、持てる者が食糧を抱え込んでいるからである。

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