三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『銀幕のなかの死刑』1

2014年01月04日 | 死刑

銀幕のなかの死刑』は、京都にんじんの会が死刑をテーマにした映画を上映した「死刑映画週間」での講演・対談をまとめたもの。

『サルバドールの朝』は、フランコ政権末期の1974年に処刑されたサルバドールが主人公。
スペインでは1978年に一般犯罪に対する死刑が廃止され、1995年には完全に廃止されており、スペインで一番最後に死刑になったのがサルバドールである。
     

サルバドールは反体制活動に関わり、銀行強盗をし、警察との銃撃戦のさい、警官を射殺したとして死刑になる。
テロリストじゃないかと、私は映画を見た時には思った。
しかし、鵜飼哲氏はこう話す。

死刑という刑罰を考える場合、いわゆる政治的犯罪と一般的犯罪の区別が伝統的にありました。

鵜飼哲氏の話をまとめてみましょう。

日本で死刑が廃止できない理由を考える場合、日本では政治的犯罪と一般的犯罪の区別がほとんど理解されていないことがある。
ドイツやイタリアなど第二次世界大戦の敗戦国は、戦後の早い時期に死刑を廃止している。
ナチスなどの独裁の期間に死刑が乱用されたことを身にしみて体験したからである。

ファシズムに抵抗して捕らえられ、裁かれ、死刑を宣告され、処刑されていった人々が、実は正しい人々だったという表象が社会的に成立するということは、死刑という法的機構そのものに対する強い疑念を呼び起こします。

こうした歴史的背景をもつからこそ、ヨーロッパで『サルバドールの朝』を観る人は、このような闘いに参加して、死刑を宣告され、処刑されるようなことは決してあってはならないことだというメッセージを当然了解する。
韓国や台湾でも、植民地時代に独立運動弾圧のために死刑が乱用され、戦後も独裁体制によって何人もの政治犯が死刑囚として処刑されした。
スペインと類似した経験を経てきた韓国や台湾では、独裁時代を人々が知っているから、死刑が廃止されてはいなくても、執行はしない、あるいはきわめて抑制的であるという状態を作り出す要因になっている。

鵜飼哲氏の話を読み、なるほどと思いました。
スターリン体制での粛清も一応裁判を行なっていたし、張成沢の処刑でも裁判はしている。
日本だって、死刑の執行は時期を見てなされている。
たとえば、去年の9月8日に東京でオリンピックが開催されることが決まり、12日に執行したように。

死刑廃止国はキリスト教文化圏が主で、イスラム圏やアジアでは死刑は廃止になっていない、死刑廃止問題は宗教や文化の問題だと言う人がいる。
それは間違いで、死刑とは政治の問題なんですね。

鵜飼哲氏は

死刑囚という存在は、犯した犯罪の動機が何であれ、ある意味で「政治犯」であるという側面があるのですね。

と言っている。
ということは、「死刑になりたくなければ悪いことをしなければいい」という道徳のお話ではない。
死刑は自分も科される刑罰だという想像力を持つべきである。

コメント (4)
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