三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高田明和『責めず、比べず、思い出さず』1

2013年07月01日 | 仏教

知人から「仏教書を読みたい人がいる。どんな本がいいか」と聞かれ、「仏教といっても宗派によって違う。どの宗派の話がいいのか」と答えたら、「そんなに違うのか」と驚いていた。

別の知人が高田明和『責めず、比べず、思い出さず―禅と大脳生理学に学ぶ知恵』をほめるので読んでみた。
高田明和氏は浜松医科大学名誉教授。
心のもち方で幸せになれますよ、という内容である。
「不安、心配、意欲の減退、自責などの感情は薬では治せません。自分の心で治すしかないのです」

高田明和氏は次の五つの実践を勧める。

「前向きな心のもち方」
「プラスの言葉遣い」
「呼吸を変えるだけで平安に」
「坐禅で無の境地に」
「写経・読経で人生を生きいきと」

いずれも一人で行うことである。
坐禅は師匠につかなければいけない、一人でするものではないと禅宗の人に聞いたことがある。
和久井みちる『生活保護とあたし』に「人間関係で生まれた傷は、人間関係の中でしか癒せない」とあるように、救いは人との関わりの中にあると私は思っている。

でも、高田明和氏はこんなふうに書いている。
「これらのどれか一つを実行すれば、晴ればれとした心になり、苦しみ悩んでいる人たちも、本来もっている輝かしい心と充実した生活を取り戻すことができるでしょう」

「本来もっている輝かしい心」とは何か?
「釈尊は私たちが「心」だと思っているものには実体がなく、この「心」という意識が尽きたところに、永遠に続く、清らかな心があるとしました」
「妄想、煩悩を減らすようにすれば、この心の光が輝いてきて、幸せになれるのです」
禅宗を唯心宗とも言うが、なるほど心の問題か。

『責めず、比べず、思い出さず』という題名はどういう意味かというと、「「責めず、比べず、思い出さない」で苦しまない幸せな生き方が可能になる」ということである。
責めない、比べないということはわかるが、思い出さないとはどういうことか。

私たちが苦しむのは、過去のことで悩み、未来を心配するから。
私たちが思い出すことの80%は嫌なことで、この率は年を取るほど増え、70代、80代になると、思い出すことのほとんどが嫌なことになっているそうだ。
だから釈尊は考えないようにと説いた、と高田明和氏は言うのである。

四諦について、中村元『仏教語大辞典』では次のように説明されている。
苦諦 この世は苦であるという真実。
集諦 苦の原因は煩悩・妄執であるという真実。
滅諦 苦の原因の滅という真実。つまり執着を断つことが苦しみを滅したさとりの境地。
道諦 さとりに導く実践という真実。

滅諦について高田明和氏は次のように説明する。
「苦しみから逃れ、心豊かに生きるにはどのようにしたらよいのかということになります。
それが滅諦です。苦しまないようにするには考えないことが大事だ、思い出さないことが重要だと説かれたのです」

「執着を断つ」とは、考えない、思い出さないことだと高田明和氏は言うのである。
「盤珪禅師は「記憶こそ苦の元なり」と常に言われ、記憶がなければ、思い出さなければ、憎しみも恨みも、さらに苦しみもないのだと説かれました」

憎しみ、恨み、悔恨、自責などにつながる記憶を思い出したからといって、どうすることもできないし、自分を苦しめるだけだということは私にもわかる。
過去と他人はどうすることもできないのだから。

しかし、高田明和氏は悲しみについては触れていないのだが、愛別離苦という苦しみについても死者や死別の記憶を思い出すべきではないと、高田明和氏は考えているのだろうか。
藤田庄市氏の話から。
「オウム真理教では情を切る修行をするわけです。田口さんリンチ殺人事件での見張り役だったOという信者が裁判で証言していましたけど、お兄さんが死んだという話を聞いてどう思ったかというと、悲しかったけど、悲しみが自分の30センチぐらいのところでとまった。悲しみはあるけれど、それに自分は邪魔されていない。つまり、修行が進んで煩悩が少なくなっているから悲しみに侵されないというようなことを言ったんです。
同じことを話をしてたのが、麻原彰晃の奥さんです。オウム真理教が事件を起こす前に話を聞いたんですけど、修行を積んである程度の段階になると、悲しみはあるんだけど、それが自分の身体の表面を伝って流れていく。悲しみに自分が左右されなくなる。そういうことを言ってました。
我々からすると、まともな人間の感情を失っているんじゃないかと、かえって心配しますね。ところが、彼らは悲しみを感じなくなるとか、他人に共感しなくなるのを修行が進んでいると考えるんです」

私も藤田庄市氏の心配はもっともだと思う。
親しい人が死んでつらい思いをするのはその人に執着しているからであり、死者のことを考えず、思い出さなければ悲しみがなくなるというのは筋としては正しいかもしれないが、そういうのは幸せとは言えないのではないか。

高田明和氏は「人生においては大きい問題ほど考えても解決できず、むしろ考えることで心が苦しく、不安になるだけです。死、人生の意味、幸福、生きがいなどは考えても結論のでない問題です。むしろ考えないことによって心の平静や幸福感が保てるのです」とも言う。

たしかに「なぜ生まれたのか」「なぜ生きなければならないのか」といった問いには答えはないが、こうした問いを大切にすることが人間らしさだと思う。
考えないことが幸せなら、ロボトミー手術をして、外界のできごとに対して無関心・無頓着になればいい。
何を考え、何を考えないのか、そこらが『責めず、比べず、思い出さず』を読んでもわからない。

「しあわせを感じられるってのは、同時に不幸を感じることができるてことにもなるんだ」(アイラ・レヴィン『この完全な世界』)

コメント
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